将来嘱望のJリーガー、27歳で引退→俳優に転向 「1億円稼げる」と言われ奮闘も…異例のキャリアを辿った理由

年代別代表でも活躍し、2007年のU-20W杯へ出場(左から2番目)【写真:Getty Images】
年代別代表でも活躍し、2007年のU-20W杯へ出場(左から2番目)【写真:Getty Images】

故郷の宮城を離れて名古屋ユースへ「ガムシャラに練習」

 名古屋ユース時代、青山は「ガムシャラに練習した」という。高1の早い段階で試合出場を果たし、トップチームの練習や紅白戦にも駆り出された。

「トップの練習に参加すると、『ここで頑張ったら1億円、稼げるんだぞ』と言われました。自分でも、何のために名古屋に来たのかを考えていたので、朝は通学前から1時間走り、居残り練習も照明を消されるまでやっていました。チームメイトが女の子とデートをしている時、僕は『チャンスだ』と思いながら、練習に打ち込んでいました」

 結果、青山は同期メンバー15人のうち、1人だけトップチーム昇格を果たした。

「僕自身はこの時点でトップに上がれなければ、サッカーを辞める覚悟でした。当時は大学経由でのプロ入りよりも、『ユースから上がってこそ』に価値がありましたし、宮城から出る時にあった『どうせ、プロにはなれない』という評価への反骨精神もありました」

 その間も世代の日本代表に選ばれ、U-16時は主将として国際大会を経験した。06年に名古屋と契約後も、07年にDF内田篤人、槙野智章らとU-20ワールドカップ(W杯)に出場。1次リーグ初戦のスコットランド戦ではゴールを決めるなど活躍し、16強進出に貢献した。しかし、名古屋での2年半は「壁」に跳ね返され続けた。

「チームには藤田俊哉さん、秋田豊さんをはじめ、実績のある選手が多かったですし、僕にはそこに切り込む実力もメンタルもありませんでした。サッカー人生で初めて当たった大きな壁でした。同世代の代表選手は所属チームで試合に出ているのに、代表でレギュラーの自分が名古屋では試合に出られない状況にも、悶々としていました。監督がピクシー(ストイコビッチ)になった08年は、春季キャンプでスタメン組の右サイドバックに入り、『持っているものを出せ』と言ってもらえました。ただ、いろんな人に『ああしろ、こうしろ』と言われ、気づいたら萎縮していました。思えば、毎年3、4回はチャンスがあったのに、『俺はこうだ』と言えるプレーができなったのが、名古屋時代でした」

 そして、同年5月に当時J2のC大阪に期限付き移籍。リーグ14試合出場を果たしたが、ポジションを奪いきれず、反発もしたという。

「スタメンでいいパフォーマンスをして、クルピ監督からも『良かった』と言われたのに、次の週はベンチスタート。監督は自分が連れてきたブラジル人のボランチを使いたかったんだと思いますが、ここで尖っている青山隼が出てしまいました。我慢していれば、その先は違ったと思います」

 09年は、3年連続J2最下位で積極的な補強策を打っていた徳島に期限付き移籍。開幕戦からフル出場し、初めてシーズンを通してプレーできた喜びがあった。

「美濃部(直彦)監督にシーズンを通して使ってもらい、試合でできること、できないことが分かってきました」

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