監督激怒「お前のせいで負けた」…ボロクソ1時間説教の夜 選手人生を救った恩師に感謝「うるせ~なんて叫んでたら今はない」【インタビュー】

かつて大宮でプレーをした氏家英行(写真左)【写真:産経新聞社】
かつて大宮でプレーをした氏家英行(写真左)【写真:産経新聞社】

【元プロサッカー選手の転身録】氏家英行(横浜F、大宮、草津ほか)第3回:恩師との出会いで変わったプロサッカー人生

 世界屈指の人気スポーツであるサッカーでプロまでたどり着く人間はほんのひと握り。その弱肉強食の世界で誰もが羨む成功を手にする者もいれば、早々とスパイクを脱ぐ者もいる。サッカーに人生を懸けて戦い続けた彼らは引退後に何を思うのか。「FOOTBALL ZONE」では元プロサッカー選手たちに焦点を当て、その第2の人生を追った。

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 今回の「転身録」は、横浜フリューゲルス、大宮アルディージャ、ザスパ草津(現・ザスパクサツ群馬)でプレーした氏家英行。引退後はトレーナーとしても精力的に活動するなか、現役時代の忘れられない思い出と今は亡き恩師への思いを明かした。(取材・文=河野 正)

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 1998年に横浜フリューゲルスユースからトップチーム昇格を果たした氏家英行だが、運営母体の1つだった佐藤工業が経営から撤退。横浜マリノスに吸収合併され、このシーズンをもって消滅する。

 この一報を聞き、行く末についてまず思い浮かんだのが日本体育大に入学し、関東大学リーグで活躍すること。卒業後は体育教師をぼんやり考えていた。一方で、横浜Fは各選手の移籍クラブを探すことに奔走。そのおかげで路頭に迷う選手は1人も出なかった。

 同期の遠藤保仁、手島和希、大島秀夫、辻本茂輝の4人は全員が京都パープルサンガ(現・京都サンガF.C.)に移籍。氏家も京都を勧められたが固辞した。試合に絡める自信がなかったこともあるが、翌99年にスタートするJ2に大宮アルディージャが参加し、氏家に加入を申し入れていたからだ。

「当時は『J2ってなんだよ?』みたいに思われていたけど、そんなことはちっとも気にしなかった。若いうちに場数を踏んでおくことが自分のためになると思った。大宮へ移籍したことは正解だったし、いい決断をしたと今でも思っていますよ」

 98年まで続いたジャパン・フットボールリーグ(JFL)に所属した大宮は、この年の7月にオランダ人のピム・ファーベーク監督を招請し、翌年開幕するJ2に備えた。

 3つのラインをコンパクトに形成し、敵の急所を徹底的に切り裂くピム監督の手法は画期的で、選手はある種のカルチャーショックを受けたという。練習でも細かい要求がたくさんあったそうで、「4-4-2の最終と中盤の各ラインにブロックを作るやり方は、ピムが持ち込んだ独自の戦法でとても斬新でした。当時大宮にいた関係者は誰もがそう感じていますよ」

 氏家はこう言って頷くと、さらに言葉をつないだ。

「自分も指導者になって、あの時ピムがすごく大事なことを教えてくれたと思った。それまではボールをどこに止めたらいいのか、パスの質はどうあるべきか、なんて考えたこともなかったけど、ピムは斜め45度にコントロールし、インサイドやツータッチのパスにこだわった。衝撃的だった。サイドバック(SB)が攻撃の起点になることも強調していた。フィジカルの強さだけでやってきた僕にスキルを教えてくれた。楽しかったなあ。ピムのおかげでサッカー寿命が延びたんですよ」

引退後はトレーナーとして活動する【写真:本人提供】
引退後はトレーナーとして活動する【写真:本人提供】

ホテルの一室で怒鳴り散らす監督…「あの夜のことは今でも覚えています」

 大宮に移籍した1年目、氏家はU-20日本代表としてワールドユース選手権(現・U-20ワールドカップ)に出場。4月24日の決勝までナイジェリアに滞在し、Jリーグは3月28日の第3節から4月29日の第8節まで欠場した。

 その後は第11節から最終36節まで26戦続けてフル出場。右SBやボランチの主力となっていたが、それは8月21日に敵地で行われたベガルタ仙台との第22節の出来事だった。

 大宮は磯山和司のゴールで先制したが、その後2点を失って逆転負け。2連敗を喫した。その晩、後泊していたホテルのピム監督の部屋に呼ばれた。監督のほか、三浦俊也コーチ、岡本武行GKコーチ、中村順通訳らスタッフが勢揃いしていた。

 ピム監督は「今日の試合はお前のせいで負けた」と第一声を発したあと、「なぜリードされている終盤、決まる可能性がほとんどないシュートを打つんだ」と顔を赤くして怒鳴り散らしたという。

 練習中から厳しく、辛辣な言葉もある指導者だったが、その夜は一方的に1時間ほど説教と忠告と訓示が続いた。「『もっと体脂肪を落とせ』とか、何から何までボロクソ言われました」。氏家はただただ黙って聞き入るしかなかった。

 横浜Fでプロのキャリアをスタートさせ、図南SC群馬(現・tonan前橋)で引退するまで、指導者にこれだけ怒られた経験は最初で最後だ。「そりゃ、小学生や中学生とかではありましたけど、プロサッカー選手が学校の先生に呼び出されるような形で怒られ、延々と説教されることなんて普通はありませんよね。あの夜のことは今でもはっきり覚えています」と言って天井を見つめた。

 ピム監督は99年限りでクラブを去ると、韓国代表のヘッドコーチに就任し2002年日韓W杯で、韓国のベスト4入りに尽力。京都パープルサンガ(現・京都サンガF.C.)の監督や韓国代表監督などを歴任し、オーストラリア代表監督として10年の南アフリカW杯出場を果たした名将だ。

「まだピムがどのくらい指導者として優秀なのか、よく理解できていない時期でしたが、仙台戦の夜をきっかけにこの監督にもっと教えてもらいたい、ずっと付いていきたいって思いましたね」

サッカー界への復帰も目標の1つになっている【写真:河野 正】
サッカー界への復帰も目標の1つになっている【写真:河野 正】

亡き恩師へ謝辞「若くてプロの所作を知らなかった21歳の自分を変えてくれた」

 それまではフィジカルの強さを前面に押し出し、若さと勢いとノリの良さでやってきたが、これを契機にプロとしてどういう心構えでいるべきかを初めて感じたという。練習への取り組み方にも変化があった。

 指揮官は最後に「ウジ(氏家)なら響いてくれると思ったから、ここまで言ったんだ」と付け加えた。自分のどこを評価してくれているのか分からなかったが、とにもかくにもモチベーションは倍増。それまでも給料をもらって観客にサッカーを披露するプロ選手ではあったが、さらなる発奮を求めた監督の親心を知り、本物のプロフットボーラーの心得を身に付けていったのだ。

 ピム監督の戦術の鍵を握る右SBで躍動。浮氣哲郎がセンターバックに入った時は、岩瀬健とボランチを組み、つぶし役らしい闘争心あふれるプレーで観客に喜びを提供した。

 ピム監督が退団した2年目は背番号が7に変わり、ボランチに定着してリーグ戦32試合に出場。3年目は37試合、4年目も31試合でピッチに立ち、中列後方で敵の進入を防御する大宮の顔になった。

「若くてプロの所作を知らなかった21歳の自分を変えてくれた。あの時、心の中で『うるせ~、この野郎』なんて少しでも叫んでいたら、今の自分はなかった。選手として一番影響を受けたのがピムで、自分はピムに救われた」

 氏家はしんみりとこう語り、今は亡き恩師に謝辞を述べた。(文中敬称略。チーム名は当時の名称)

[プロフィール]
氏家英行(うじいえ・ひでゆき)/1979年2月23日生まれ、東京都出身。横浜Fユース→横浜F→大宮→草津→図南SC群馬。J1通算9試合1得点、J2通算189試合0得点。1999年にワールドユース選手権(現U-20ワールドカップ)準優勝を経験。2014年に引退後、群馬のヘッドコーチ、GM補佐を歴任。2018年度のS級コーチライセンスを取得。21年からトレーナーとしても活動し、パリ五輪レスリング女子62キロ級で金メダルを獲得した元木咲良にも指導。東京都シニアリーグの強豪レアル東京40でもプレーしている。

(河野 正 / Tadashi Kawano)



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河野 正

1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。

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