年俸180万円からのプロ生活 元Jリーガー小椋祥平は「生き残るため」に“マムシ”になった

「上には上がいることを知った」国体メンバーでの経験

 小学校1年生でサッカーを始めた。転勤族の父親とともに全国を渡り歩き、当時は大阪に住んでいた。3歳上の兄・喬児(きょうじ)がサッカーにのめり込んでいたことも理由だったが、それ以上に大きかったのが身近なところにあったガンバ大阪への“憧れ”だ。

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「ちょうどJリーグが開幕した頃だったので、華やかな世界に目を奪われました。住んでいた地域はガンバ大阪推しだったこともあり、自分も自然と応援するようになりました」

 所属した日吉台ウイングスでは、1学年下に東口順昭(現・G大阪)がいた。それに気づいたのは20年以上も経ってG大阪でチームメートになってから。小椋は2年生の終わりに千葉へ引っ越した。

 小学校6年生でFC東京U-15のセレクションを受けるも、あえなく落選。街クラブでサッカーを続けて船橋市トレセンに選ばれていたもののJリーグの育成組織でプレーするようなエリートではなく、市立船橋や八千代といった強豪高校にスポーツ推薦で入学するのは難しかった。

 岐路に立たされた小椋の道標となったのは、身近な存在である兄だった。

「兄は東京の修徳高校で冬の高校サッカー選手権にも出場するくらいの選手だったんです。左利きのウイングで足が速かった。選手権に出場している兄を応援に行って、自然とあの舞台に憧れました。それに東京都なら2校が選手権に出られる。そんな不純な動機で修徳高校に進学しました(笑)」

 修徳では1年次からAチームのメンバーに選ばれ、2年生になった頃にはレギュラーの座を獲得。その頃からポジションはボランチで、相手のボールを奪うことが何よりも楽しかった。

 しかし高校3年間は東京都予選ベスト4が最高で、選手権出場という目標は達成できず。小椋自身はというと東京都国体メンバーに選出されていたものの、修徳のコーチが監督を務めていたため、いわゆる忖度を感じずにはいられなかった。

「国体メンバーは錚々たる顔ぶれでした。同い年にはFC東京の梶山陽平や李忠成(現・京都サンガF.C.)がいて、東京ヴェルディや帝京高校の選手もいました。修徳からは2人が選ばれたけど、僕なんかはまったく場違いで……。ボランチの梶山をわざわざトップ下にして僕を起用してくれたけど、僕自身は自分の力不足を痛感しました。それで国体が終わった後にサッカーをやめようと思ったんです。結局は監督やコーチに説得されて最後まで続けましたが、上には上の存在がいることを知りました」

 Jクラブからオファーをもらうような立ち位置ではなく、関東大学リーグの強豪からも誘いは来なかった。地方大学からいくつか声をかけてもらったが、一人暮らしなどで親に経済的負担をかけたくないという思いもあった。

藤井雅彦

ふじい・まさひこ/1983年生まれ、神奈川県出身。日本ジャーナリスト専門学校在学中からボランティア形式でサッカー業界に携わり、卒業後にフリーランスとして活動開始。サッカー専門新聞『EL GOLAZO』創刊号から寄稿し、ドイツW杯取材を経て2006年から横浜F・マリノス担当に。12年からはウェブマガジン『ザ・ヨコハマ・エクスプレス』(https://www.targma.jp/yokohama-ex/)の責任編集として密着取材を続けている。著書に『横浜F・マリノス 変革のトリコロール秘史』、構成に『中村俊輔式 サッカー観戦術』『サッカー・J2論/松井大輔』『ゴールへの道は自分自身で切り拓くものだ/山瀬功治』(発行はすべてワニブックス)がある。

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