年俸180万円からのプロ生活 元Jリーガー小椋祥平は「生き残るため」に“マムシ”になった

横浜FM移籍で手にした一つの成功、胸に刻まれた大先輩からの言葉

 様々な意味で描いていた青写真通りとはいかなかったものの、この試合でのパフォーマンスがきっかけでチームを率いていた前田秀樹監督とチームメートからの信頼を勝ち取ることに成功。以降はコンスタントに出場機会を得るようになり、水戸では濃密な4年間を過ごした。毎年少しずつ上がっていく年俸は、自分自身がサッカー選手であることを実感できるかけがえのない出来事だった。

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 水戸の中心選手としてプレーする充実感を覚える一方で、高いステージへチャレンジしたいという欲が湧いてくるのは自然な流れだろう。プロ3年目の終わりに北京五輪出場を目指す年代別代表に長友佑都(現マルセイユ)や岡崎慎司(現ウエスカ)とともに初招集されたことも、小椋の向上心をさらに強くした。

 こうして安住の地を飛び出し、人生初の移籍を決意する。行き先は名門の横浜F・マリノスだ。

「年俸は水戸時代よりも上がったけど契約年数はこれまでと同じ単年で、その時の自分は複数年契約というシステムがあることすら知りませんでした(笑)。でも支度金も用意してもらえて、新しい環境へ飛び込むモチベーションは高かったです」

 J2での活躍が認められて個人昇格を果たしたとはいえ、全国的には無名の存在に過ぎない。だからチームメートからの風当たりが強かったのも事実で、J1での実績豊富な集団に放り込まれたのだから無理もないだろう。開幕からベンチ入りしたものの、リーグ戦での出場機会はなかなか訪れなかった。

 そこで小椋はとにかく「ボールを奪う」という武器に磨きをかけ、次第に先輩たちに認められていく。

「きっかけは(河合)竜二さんの言葉です。『お前、ボールを奪う能力は本当に凄いよな。でもボールを奪った後がマジで下手だよな(笑)。だから奪ったらすぐにパスしろよ。オレたちがどうにかしてやるから』って。それで頭の中を整理できました。テクニックに優れた選手たちの近くにいて自分も背伸びしていたけど、まずは自分ができることをガムシャラにやろうと思いました」

 相手をひたすら追いかけ回し、とにかくボールをむしり取る。奪ったボールをすぐさま味方に渡し、チームの攻撃回数を増やす。いつしか小椋のボール奪取能力は横浜FMの欠かせない武器となり、在籍した7年間でJ1リーグに142試合出場した。次第にその名は全国区となり、シーズンごとに上がっていった年俸は1000万円の大台を軽々と突破した。

 年俸180万円からスタートした男が、Jリーガーとして一つの成功を収めた。そんな小椋には尊敬してやまないあの大先輩との忘れられないエピソードがある。

「車を買い替えるタイミングがあって、その時にマツさん(故・松田直樹)に言われた言葉は今でもしっかり覚えています。どの車にしたらいいのか悩んでいて相談したんです。そうしたら『オレたちが安い車に乗っていたら、Jリーガーとして子どもたちに夢を与えられないだろう。ピッチで活躍するのは前提で、プライベートでもいい車に乗って、いい洋服を着る。そういう姿を見て子どもたちやその親がサッカー選手の価値を知ってくれるんだよ』って。刺さりましたね(笑)」

 小椋が高級外車を選んだのは、あらためて言うまでもないだろう。

藤井雅彦

ふじい・まさひこ/1983年生まれ、神奈川県出身。日本ジャーナリスト専門学校在学中からボランティア形式でサッカー業界に携わり、卒業後にフリーランスとして活動開始。サッカー専門新聞『EL GOLAZO』創刊号から寄稿し、ドイツW杯取材を経て2006年から横浜F・マリノス担当に。12年からはウェブマガジン『ザ・ヨコハマ・エクスプレス』(https://www.targma.jp/yokohama-ex/)の責任編集として密着取材を続けている。著書に『横浜F・マリノス 変革のトリコロール秘史』、構成に『中村俊輔式 サッカー観戦術』『サッカー・J2論/松井大輔』『ゴールへの道は自分自身で切り拓くものだ/山瀬功治』(発行はすべてワニブックス)がある。

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