なぜメキシコでプロ指導者に? 「日本よりチャンスがある」監督学校、異国で戦う2人のコーチ

長崎時代にマネージャーから指導者へと志が変わった

 そんな塩沢氏の背中を追いかけるようにキャリアアップを図っているのが、給田氏だ。京都生まれの32歳。小学生の時にサンガファンになり、将来はサッカーに携わる仕事を望むようになった。

 京都すばる高卒業後、JAPANサッカーカレッジ専門学校に入学。在学中には07年にインターン生としてアルビレックス新潟シンガポールでマネージャーとスクールコーチを経験。Jリーグクラブでマネージャーとして働きたいという思いを持つようになる。

 08年から2年間は当時九州リーグ、JFLだった現J2のV・ファーレン長崎でマネージャーとして勤務。その時出会ったのが、かつてジュビロ磐田などでプレーした東川昌典氏(現・ツエーゲン金沢アカデミー統括)だった。08年から09年途中まで長崎の監督を務めた東川氏から、指導者としての魅力を感じるようになっていた。

 一方で、長崎はスタジアムがJリーグの基準を満たしておらず、国体の関係もあり、最短でも4年後にしかJリーグには昇格できなかった。そして、Jリーグのチームで働くことを夢見ていた給田氏の思い描く職業は、マネージャーから指導者へと変わっていった。

「シンガポールの時の監督が平岡宏章さん(現・清水エスパルスコーチ)で、オシムさんのようなサッカーをやろうとしていた。7色のビブスを用意するのは大変でしたけど、3人目の動きについてよく言っていて、こういうサッカーをしているんだというのが生で見れた。練習内容をノートに書いていたので、後で見返した時に勉強になりました」

 アジアカップ前には、日本サッカー協会の偵察部隊としてシンガポールで行われた北朝鮮の親善試合をカメラで撮影。試合中、それが北朝鮮のスタッフに見つかり、韓国代表のスタッフとともにスタジアムを追い出され、近くのマンションの高層階からこっそり撮影したことも、今ではいい思い出だ。

 シンガポール時代は国が小さかったため、泊まりの遠征はなく、一番遠いアウェーでもバスで50分の距離。だが、長崎では毎日練習場所を探さなければならず、限られた予算内でキャンプや遠征を手配するという苦労も味わった。

「キャンプの時は格安の2人部屋のホテルを探し、予算内で食事を作ってもらい、夜中の2時、3時まで洗濯をして、翌朝7時に起きて練習に行っていた。あの時が一番大変でしたね。マネージャーをやって、半分夢は叶ったんですが、練習試合で(当時川崎フロンターレの)鄭大世の打点の高いヘッドを見て、自分もこういう(Jの)世界に行きたいとも思っていました」

 そして09年、東川氏が監督を解任され普及スタッフになった後、監督としてやりたかった戦い方について聞く機会が増え、戦術を理解したことで、自分も指導者になりたいという思いを持つようになったのだという。

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