なぜメキシコでプロ指導者に? 「日本よりチャンスがある」監督学校、異国で戦う2人のコーチ

地道な積み重ねがオファーにつながるが… 給料の払い渋りやクビ宣告も経験

 午前中はメキシコ国立自治大学でスペイン語を学び、午後は聴講生として監督学校の授業を受けたり、メキシコシティを本拠地とする1部クルスアスルのサッカースクールの手伝いを続けた。最初は苦労も多かった。

「監督学校の授業は、最初は何を言っているのかほぼ分かりませんでした。アポなしでプロチームの練習を見に行って、門前払いされたりもしました」

 そして留学期間が終わった1年後、心の中に宿っていたのは「(日本で)メキシコのサッカーについて聞かれても、中途半端で、自分として話せるものがない。せっかくなら何か一つ成し遂げてから帰りたい」という思いだった。

「それならメキシコの監督学校に通って資格を取れば、経験になる」

 そう決断した塩沢氏は一旦帰国し、半年後の13年3月、再びメキシコシティに戻った。

 地元のサッカースクールでコーチをし、授業料や生活費を貯めながら監督学校に2年間通い、15年に資格を取得。同時に、メキシコシティで集中開催されるU-15、U-13の全国大会に毎回通い、興味が湧くチームを探しながら顔を売った。

 そんな時、再会したのが監督学校で同期だった友人が働いているサントス・ラグーナの下部組織に勤めるフィジカルコーチだった。塩沢氏はサントス・ラグーナの次の対戦相手をチェックして、試合ごとに分析レポートを提出。その甲斐もあってか、チームは優勝を飾った。すると、チームから「一緒に手伝ってくれないか」とオファーが届き、次の大会から、大会ごとに臨時スタッフとして試合の撮影や対戦相手のスカウティングを任されるようになった。塩沢氏は、大会中はパソコン片手に試合を見ながら選手のタグ付けをし、試合後にはスタッフがすぐに映像を見られるように編集した。

 そんな地道な積み重ねが、次のオファーにもつながった。サントス・ラグーナから、メキシコシティにある支部の下部組織のスタッフとして声がかかったのだ。だが、順調にはいかなかった。塩沢氏はビデオ編集など、各カテゴリーのサポート役として働いていたが、給料の払い渋り問題が発生したのだ。そして生活のため、苦渋の決断で別のチームを探し、3部のチームにコーチとして移った。

 しかし、今度はオーナーのワンマンぶりに手を焼かされた。監督もコーチもお飾り状態で、試合で指示を出すと、GMから「お前は指示は出さなくていい」と物言いが入る。やりがいを感じることができなくなり、意見を言うとクビの宣告が待っていた。そして、わずか1カ月でチームを去った。

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