ジョホールバルの“敵将”と日本サッカー 「やる気を引き出す達人」が長野で教えたこと
【老将バドゥと日本サッカー|第1回】地域リーグクラブにやって来た“大物”指導者
2006年6月、まだ北信越リーグで戦っていた長野エルザ(現・長野パルセイロ)は、初めて外国人の監督を迎える方針を固めた。
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横浜FCの監督を退任し、クラブのアドバイザーになった足達勇輔が動き出すが、伝わってくるのは「ビッグネーム」だという漠たる情報だけだった。
現在、堀越高校サッカー部でボトムアップ方式での指導に取り組んでいる佐藤実は、20歳代で長野エルザの監督に就任していたが、体制が変われば自分はチームを去ることになるだろうと予想していた。まさか間もなく訪れる新監督との出会いが、指導者人生の転機をもたらすとは、想像もしていなかった。
やがてクラブは新監督の名前を発表したが、「ヴァルデイル・バドゥ・ヴィエイラ」と聞いて、ピンと来たスタッフは皆無だった。ただし「あの時の…」と説明が加えられると、一斉に「エ~!」と驚きの声が重なった。
1997年、日本代表がジョホールバルの地でワールドカップ(W杯)初出場を決めた時の相手、イラン代表の指揮を執った人物だった。
「そんな大物がJクラブじゃなくて、ここに来ちゃうの!?」
しばらく興奮が冷める様子はなかった。
◇ ◇ ◇
若くして監督を託された佐藤には、大きな責任感と使命感が押し寄せていた。自身の現役生活を振り返れば、上意下達が当たり前で、まだそれが効率的だと信じていた。勝てなければ、来年のクラブの存続や仕事の確保もままならない。追い詰められ、血気盛んに大声でベンチから指示を出し、些細な判定でレフェリーに食ってかかることも珍しくなかった。
そんな自分の後任に、イランやコスタリカの代表を指揮した正真正銘のプロの監督がやって来るのだ。きっと今までやってきたことは全面的に否定され、ゼロからの出直しになるに違いないと思っていた。
ところが意外にも、バドゥは佐藤をコーチとしてチームに残すことを希望した。そして当時、すでに60歳を超えていたベテラン監督は、スタッフや選手を最大限に尊重し、彼らのやる気を引き出す達人だった。
加部 究
かべ・きわむ/1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。最近選手主体のボトムアップ方式で部活に取り組む堀越高校サッカー部のノンフィクション『毎日の部活が高校生活一番の宝物』(竹書房)を上梓。『日本サッカー戦記~青銅の時代から新世紀へ』『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(いずれもカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。