伝説の“40m芸術FK弾”を決めた元Jリーガー ビジネスマンへの転身と「日本に恩返し」の夢

横浜フリューゲルス時代のエドゥー【写真:Getty Images】
横浜フリューゲルス時代のエドゥー【写真:Getty Images】

【あのブラジル人元Jリーガーは今?】エドゥー(元横浜フリューゲルス):前編――今はなきクラブで輝きを放ったレフティー

 ゴールまでの距離40メートル――。振り切った左足から鮮やかに決まった伝説のFK弾。そう聞くだけで、創成期からJリーグを見て来た人なら間違いなく、彼を思い浮かべるだろう。

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 その一撃を放った元横浜フリューゲルスのMFエドゥーは今、選手としても発揮していたインテリジェンスを生かして、サンパウロで多忙な日々を送っている。

 1993年の来日から2年間主力としてプレーしたのちにフリューゲルスを去り、ブラジルへ帰国。コリチーバとインテルナシオナウ・ジ・リメイラの2クラブでプレーし、現役を2年半続行した。母の死をきっかけに地元サンパウロ市内に戻り、スパイクを脱いだエドゥーは、すぐに監督になるための準備を始めた。

 ブラジルサッカー連盟のライセンス講座や、イタリアでの監督講座も修了。ただ、彼が監督を志すようになったのは、フリューゲルス時代、選手以上のことを任された経験がきっかけだったという。

「僕の監督人生は日本で始まったんだ。当時、加茂(周)監督と一緒にチームメートたちを指導したり、試合ではピッチの中での指揮官の役割を担った。それに、学んだことも多い。日本人の規律正しさは、プロとしてとても大事なことだし、チームをどうオーガナイズするか。そのうえで、危険を冒してでも攻める姿勢をどうチームに植え付けていくかなど、指導者側として考えることができた」

 1999年から正式に監督業をスタート。2002年、サンパウロ州にあるポルトゥゲーザ・ジ・デスポルトスを率いて、コパ・サンパウロ・ジ・ジュニオール優勝に導いた。ブラジル全国選手権1部のパラナ・クルビを指揮したこともある。ジュベントスでは、05年にサンパウロ州選手権2部で優勝し、1部復帰を達成した。

 そのジュベントス監督時代からは、息子エドゥアルド・ヴィニシウスがアシスタントコーチを務めていた。日本にいた頃は幼い少年だった彼は、大学で体育学を学びながら、父の下で現場経験を積んでいた。

 彼は「父は、もともと持っていた指導力に、どんどん付加価値をつけていっている。学ぶことがとても多いよ」と、父への尊敬を語っていた。

 練習中は厳しく、練習が終われば、いろいろな話を聞かせ、選手たちが笑い転げる場面も多い。選手たちに聞くと「素晴らしいプロフェッショナルだし、人としての彼もすごく好き」という声が続いた。

藤原清美

ふじわら・きよみ/2001年にリオデジャネイロへ拠点を移し、スポーツやドキュメンタリー、紀行などの分野で取材活動。特に、サッカーではブラジル代表チームや選手の取材で世界中を飛び回り、日本とブラジル両国のテレビ・執筆などで活躍している。ワールドカップ6大会取材。著書に『セレソン 人生の勝者たち 「最強集団」から学ぶ15の言葉』(ソル・メディア)『感動!ブラジルサッカー』(講談社現代新書)。YouTubeチャンネル『Planeta Kiyomi』も運営中。

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