日本を愛した“ジョホールバルの敵将” ブラジル人監督が残した次世代へのメッセージ

当時イラン代表を率いたバドゥ氏【写真:Getty Images】
当時イラン代表を率いたバドゥ氏【写真:Getty Images】

【老将バドゥと日本サッカー|最終回】イラン代表監督として日本と対戦、来日後は長野での生活を愛する

 1997年にジョホールバルで行われたフランス・ワールドカップ(W杯)アジア最終予選の第3代表決定戦は、日本が本大会への初出場を決めた試合として多くのファンに記憶されている。

 イランは駆け引きの多いチームだった。前日練習の際には、エースストライカーのコダダド・アジジが車椅子に乗って現れ、試合中にもGKアハマド・アベドサデが負傷したふりをして何度も倒れ込み、時間稼ぎをした。だがこの時、イラン代表を指揮したバドゥ監督は、その後日本で指導した際にはこうしたマリーシア(狡賢さ)を求めなかったという。

 むしろ来日当初から積極的に日本の良さを学び、取り入れていく姿勢が顕著だったという。長野エルザSC(現・AC長野パルセイロ)監督時代にコーチを務めた佐藤実は、監督を送迎していた時期があり、車中で長淵剛の曲を流すとバドゥは早速興味を示したという。

「よし、これで俺も日本語を覚えるぞ」

 その後、自分で車を購入すると、いつも大音響で流すようになった。グラウンドに長淵が響き渡ると「あ、来た来た」と、監督の到着に誰もが気づくようになるのだった。

 また合気道にも興味を持ち、選手も誘って通うようになった。

「たぶん精神を集中する効果などがあったのでしょうけど、みんな『バドゥさんが言うから』とついていっていました。もし僕が言い出したら、『何言ってるの?』で終わっていたと思いますよ」(佐藤)

 結局佐藤は、半年ほどでチームを離れていくのだが、バドゥ監督は長野を愛し3年間指揮を執った。

「ここは空気も澄んで、山も街並みも美しい」

 いつもそれを繰り返し、海外から届くはるかに厚遇なオファーを断り続けた。

「日本はリーグ戦のスケジュールも整備され、公平性が保たれ八百長もない。これは本当に素晴らしいことなんだ」

 日本人が当たり前のように享受していることが、いかに貴重なのかを繰り返し説いた。

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加部 究

かべ・きわむ/1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。最近選手主体のボトムアップ方式で部活に取り組む堀越高校サッカー部のノンフィクション『毎日の部活が高校生活一番の宝物』(竹書房)を上梓。『日本サッカー戦記~青銅の時代から新世紀へ』『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(いずれもカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。

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