日本サッカーを変えたオフトジャパンの快挙 アジア初制覇が生んだ熱狂と他国の警戒心
【アジアカップ“王者”の記憶|第1回】1992年広島大会「Jリーグ開幕前年の歓喜」
日本サッカーが劇的な変革期を迎えていた。
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初めて日本代表に外国人監督が抜擢され、負け癖とスタジアムの閑古鳥が消えていった。1992年夏、中国で開催されたダイナスティカップ(現・E-1選手権)に挑んだハンス・オフトが率いる日本は、それまで格上と見られてきた韓国、中国、北朝鮮を押さえて優勝する。ただし前回の90年大会は最下位に終わっており、この変貌を見届けた日本人記者はわずかに2人だけだったという。
オランダ人のオフト監督は、まず基本的な規律をチームに植えつけ、ライバル国にはない日本の長所を引き出した。明確な戦術の下に組織的な攻守が機能するようになると、圧倒的なフィジカルを誇るはずだった韓国の選手たちが、先に肩で息をするようになる。その光景は日本代表選手たちに、大きな驚きと勇気を与えた。
広島でアジアカップが開かれたのは、その秋だった。実は日本が大会にフル代表を送り、真剣勝負を挑むのは初めてだった。まだアジアカップが大陸選手権として浸透し切れていなかったこともあるが、日本側が最初からタイトル奪取を諦めていた側面もある。その点でも東アジアを制した実力が本物なのか、真価を問われる場となった。
だが参加8カ国を2つに分けたグループリーグで、日本は開幕からUAE(0-0)、北朝鮮(1-1)と立て続けに引き分け。1勝1分のイランを、2分の日本とUAEが追う形で最終戦を迎えた。
どうしても勝利が欲しい日本に、首位イランとの最終戦で最初追い風が吹いた。イランは後半8分に退場者を出して10人に減る。ところがハンデを抱えたイランが分厚い守備を固めてきたため、日本は打開策を見つけるのが難しい状況に陥った。
加部 究
かべ・きわむ/1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。最近選手主体のボトムアップ方式で部活に取り組む堀越高校サッカー部のノンフィクション『毎日の部活が高校生活一番の宝物』(竹書房)を上梓。『日本サッカー戦記~青銅の時代から新世紀へ』『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(いずれもカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。