西野監督と日本サッカー協会の「皮肉な巡り合わせ」 W杯へ“二度の苦い経験”がカギに
アトランタ五輪で「守備的」と批判された指揮官がハリル体制の軌道修正を図る
皮肉な巡り合わせになった。
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1996年アトランタ五輪で、西野朗監督は優勝候補筆頭のブラジルに奇跡的な勝利を収めた。だが日本サッカー協会(JFA)は、その戦い方を「守備的過ぎる」と批判した。周到な準備を施し、世紀の大番狂わせを演じた当事者にすれば、まさかの逆転評価だったはずだ。そして今度は技術委員長職にあった西野氏が、バヒド・ハリルホジッチ前監督の軌道修正を図る立場に回った。
過去を振り返っても、日本代表監督はワールドカップ(W杯)の1~2年前には、すべて解任の可能性があった。逆に解任論が出なかったのは、任期途中で病に伏したイビチャ・オシム氏だけだった。現実に誰も解任されなかったのは、JFAが明確な代表監督の基準を持たなかったからで、だから解任の是非も結果で判断するしかなかった。
今回もW杯アジア最終予選のイラク戦(2016年10月6日/2-1)の結果次第では解任の可能性があったと報じられているが、内容で判断していく前提があれば、もっと早い段階で手は打てていたはずだ。
西野新監督の就任会見を聞いていて、やはり自身二度の苦い経験がベースになっていることが分かる。
まず将来を嘱望され日立製作所(現・柏レイソル)に入社したが、極端にプレーの自由を制限され、才能を開花しきれずに終わった。二度目はアトランタ五輪のマイナス査定で、見返すために「攻撃マインドを植えつけるために」バルセロナへ渡った。奇しくもアトランタ五輪を振り返り、同監督は「ステージが上がれば上がるほど自分たちのスタイルだけを貫くのは難しくなる」と語っている。
一方で、02年からガンバ大阪を率い攻撃的スタイルを根づかせた達成感も口にしていた。起伏の多いサッカーライフを踏まえ「日本人のDNAでやれることがある。自分のクラブで見せているプレーを引き出してあげたい」一方で、「ワールドカップなので結果を」とのバランスを見極めていく作業に入る。
加部 究
かべ・きわむ/1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。最近選手主体のボトムアップ方式で部活に取り組む堀越高校サッカー部のノンフィクション『毎日の部活が高校生活一番の宝物』(竹書房)を上梓。『日本サッカー戦記~青銅の時代から新世紀へ』『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(いずれもカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。