ドイツで知ったリフティング「本当に疲れた」 51年前の金字塔…“忍者”と称された初代得点王

野村六彦は日本サッカーリーグの初代得点王に輝いた
51年前に記された金字塔がある。
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1965年、日本で初めて球技の全国リーグが誕生した。日本サッカーリーグ(JSL)である。その記念すべき第1回で得点王に輝いたのが、日立本社(柏レイソルの前身)の野村六彦(むつひこ)だった。8チームがホーム&アウェイで競ったので各チームとも14試合を戦ったわけだが、野村は試合数を上回る15ゴールを記録。2位の桑田隆幸に5ゴールの差をつけた。
純粋なFWではなく2列目から飛び出してゴールを陥れるプレーぶりは「忍者」と称され、当時の日本代表コーチ岡野俊一郎も「立派な記録だ」と手放しで賞賛している。大卒3年目で165㎝と小柄な野村は、セットプレーのキッカーも任され、PKはもちろんCKを直接叩き込む精度の高い技術も備えていた。
「PKは左斜め後ろからスタートしてGKには右隅(キッカー側から)を意識させて左隅。読まれても取れないコースに蹴り込んでいました。こっちに来るかな、と牽制してくるGKもいましたが、意に介さずに蹴る。しかしやがて覚えられたので、逆にも正確に蹴れるように練習しました」
それまで日本一を決める天皇杯全日本選手権はノックアウト方式で行われ、野村も出場した1961年度などは、藤枝東高校のグラウンドで雨の中、決勝戦まで5日連続5試合(準優勝)を戦い抜くことになった。こうした環境を目の当たりにして、“日本サッカーの父”デットマール・クラマーは、ドイツへ帰国する前の置き土産として全国リーグの必要性を力説したのだった。野村は振り返る。
「連戦でも一晩寝れば元気が出たものです。大学の練習で、足腰、心臓、頭までしっかりと鍛えられましたからね」
まだ毎日練習しているのは学生だけで、社会人チームは大会開催に合わせて短期的な合宿を行って参加していた。クラマーは、年間を通したリーグ戦を導入することで、この環境を改善したいと願ったのだ。
野村が最上級生になった翌1962年度は中央大学が同校史上でも傑出した黄金期を迎え、天皇杯決勝では八重樫茂生(日本代表主将)、長沼健(メキシコ五輪日本代表監督)、川淵三郎(初代Jリーグチェアマン)らを擁す古河電工を2-1で下し、大学選手権や関東大学リーグも含めて取れるタイトルを総なめにした。
「実は立教大学へ進みたかったのですが、先に推薦で入学した舟入高校の先輩が留年をしてしまい、私は受験をさせてもらえず1年浪人をすることになりました。一方で中央大学には舟入高の同期が先に入学していたので、私は彼らを〈さん〉付けで呼ばなければならなかった。そんな経緯があったので、卒業するまで立教大との試合は、絶対に負けないぞ、という想いで臨みました。それにしても天皇杯を制した中央大学の中心メンバーは、広島出身者が大半を占めていました」

怪我で東京五輪のメンバーから漏れた
広島が静岡、埼玉と並び、サッカー界の御三家と呼ばれていた時代だった。野村は中央大学2年時に、全国から100人前後を集めて行われた選考合宿を経て日本代表に選ばれ、クラマーと初対面を果たすデュイスブルクでの合宿に参加している。
「日本代表に選ばれて広島の実家に(日本サッカー協会から)書類が届いたんです。パスポートを取得するために戸籍謄本等を用意して欲しいという内容だったのですが、父は東京へ出て来ている私が何かやらかしたのではないかと勘違いをして大騒ぎ。ようやく私と連絡がついて事実を確認し、胸を撫でおろしたそうです」
クラマーの教えは、それから65年以上も続いていく野村のサッカー観の根幹を成すことになった。
「クラマーは、いつも3Bが大切だと繰り返していました。つまり『Body balance(ボディ・バランス)』『Ball control(ボール・コントロール)』『Brain(頭脳)』と3つの『B』です。この3つのどれが欠けても良いプレーはできない」
クラマーは、1964年に開催された東京五輪に向けてJFA(日本サッカー協会)がDFB(ドイツ連盟)に依頼して招いた特別コーチである。当時アマチュアの日本には「指導術はあっても、理論立てた指導論は存在しなかった」(岡野)ので、クラマーの教えは斬新で目から鱗だった。日本代表選手たちは、デュイスブルクの合宿で初めてリフティングというトレーニング方法を知った。
「インサイド、インステップ、ヘディング……それまでなんとなくやっていましたが、クラマーは実践しながら理論立てて教えてくれました。基礎練習を延々とこなした後に、今度は3対1、3対2と徐々に実戦に近づけて、ゴールを2つ用意してどちらに決めてもいい6対6や8対8のミニサイズのゲームなどへと移行していく。ボールを奪ったらどちらのゴールを目指すのか。ドリブルなのかパスなのか。ゴールへの最適解になる状況判断を養うトレーニングです。頭と体が本当に疲れました」
野村は東京五輪に臨む日本代表の核になれる存在で、実際代表活動を通しても「やれそうだな」と手応えを感じていた。だが秋に五輪を控えた1964年3月、悲劇に見舞われる。試合中に対戦相手のスパイクが右膝の内側に入り、2か月間の入院生活を強いられた。すぐに特別コーチのクラマー、それに監督の長沼、コーチの岡野ら日本代表首脳が揃って見舞いに訪れた。
「びっくりしました。でもあれで(五輪でプレーできるのか)最後の確認をしたのでしょうね」
結局、野村は東京五輪の日本代表メンバーから漏れた。
「五輪の試合は見に行きましたが、複雑な気持ちでした」
翌年手にした得点王は、野村の雪辱でもあり、五輪で戦うに相応しい実力を備えていたことを証明していた。(文中敬称略)
(加部 究 / Kiwamu Kabe)

加部 究
かべ・きわむ/1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。最近選手主体のボトムアップ方式で部活に取り組む堀越高校サッカー部のノンフィクション『毎日の部活が高校生活一番の宝物』(竹書房)を上梓。『日本サッカー戦記~青銅の時代から新世紀へ』『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(いずれもカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。





















