元日本代表が無報酬契約…4年後に「ヤバい、全然戻らない」 酷使した体に訪れた限界

自身のプロキャリアを「幸せだった」と振り返った鈴木隆行氏【写真:近藤俊哉】
自身のプロキャリアを「幸せだった」と振り返った鈴木隆行氏【写真:近藤俊哉】

連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」:鈴木隆行(UNBRANDED WOLVES SOCCER SCHOOL代表)第7回

 日本サッカーは1990年代にJリーグ創設、ワールドカップ(W杯)初出場と歴史的な転換点を迎え、飛躍的な進化の道を歩んできた。その戦いのなかでは数多くの日の丸戦士が躍動。一時代を築いた彼らは今、各地で若き才能へ“青のバトン”を繋いでいる。指導者として、育成年代に携わる一員として、歴代の日本代表選手たちが次代へ託すそれぞれの想いとは――。

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 FOOTBALL ZONEのインタビュー連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」。東日本大震災と地元クラブ・水戸ホーリーホックの経営危機を契機に、鈴木隆行は日本へと戻った。無報酬で加入し、J1を目指す戦いに身を投じると主力として活躍。一方で、長年にわたって酷使してきた体は、限界が近づいていた。(取材・文=二宮寿朗/全8回の7回目)

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 2011年3月11日、アメリカから帰国した翌日に東日本大震災が起こった。

 鈴木隆行は地元の茨城に戻り、ニュース映像には信じられない光景が広がっていた。未曾有の被害に言葉を失うしかなかった。この状況ではアメリカに戻ることもできず、ポートランド・ティンバーズからのコーチ要請を受けることはできなかった。家族と一緒に過ごす時間を優先し、自分のキャリアのことは後回しにした。

 震災から2か月が経ち、そろそろ動かなければいけないと思い立った。地元の水戸ホーリーホック(当時J2)が経営危機に陥っていることを知り、何かできることはないかと考えた。その思いから、親交のあった柱谷哲二監督に連絡を入れた。スタッフでも何でもいい。「何か自分がやれることはないですか?」と尋ねると、「ならば選手としてプレーしてほしい」とまさかのオファーに至ったのだった。

 約半年間、選手としての体をつくっていなかったため、自ら無報酬を申し出てアマチュア契約を結んだ。6月3日に入団が発表され、急ピッチでコンディションを仕上げて1か月後には出場を果たしている。初先発した愛媛FC戦(7月31日)においてヘディングで早速ゴールを挙げ、このシーズンは途中加入ながら直接FKのキッカーを務めてゴールを奪うなど20試合5得点という結果を残した。

「J2からJ1に上げるという、今まで立てたことのない目標に対するやり甲斐はありました。(昇格が)厳しいのは、クラブの予算規模から見てもチームのレベル的にも分かっていましたけど、自分の責任を果たしていこう、と。周りの選手たちを何とかレベルアップさせたい、いい思いをさせてあげたいという気持ちではありました」

 このクラブのために何かをしたい。主力選手ながらアマチュア契約というだけでも鈴木の思いは伝わってくるが、自身の紹介でスポンサーを引き入れてもいる。水戸駅前で試合告知のビラを配ったこともある。ピッチ外でも貢献する鈴木がいた。

 アメリカで指導者への転身を考えていた人が、東日本大震災をきっかけに地元のホーリーホックとの縁が生まれ、欠かせない存在となる。2011年シーズンから4シーズンにわたってプレーし、3年目の13年シーズンには12ゴールを挙げている。日韓W杯後、ベルギー、セルビア、アメリカでもプレーしてそれぞれの歴史、文化を知った。フットボーラーであると同時に、一人の人間として幅を広げていた。人間として視野を広げたことは結果的に、ピッチでの活躍につながっていた。

様々な経験をした“幸せ”な現役生活

 しかしながら38歳となった翌14年シーズン、酷使してきた体に限界が近づいていることを感じたという。

「年々、(体の状態が)落ちてくるのは分かっていること。どのタイミングでダメになっても仕方がないなと思ってはいました。水戸での最後の年も、フィジカル(トレーニング)で追い込んでいくんですけど、それまでは早く脈回復ができて正常に戻ってくる感覚があったんです。でも、呼吸を戻そうとしてもなかなかできないし、『ヤバい、全然戻らない』と感じたこともあった。若い頃はピッチでこのまま死んでも、くらいの気持ちでしたよ。でも家族ができてその責任を伴う以上、もうそろそろにしないといけないという思いが出てきました」

 同時に、できるならサッカーをやり続けたいという正反対の気持ちもあった。反骨の人は、つまるところ骨の髄までフットボーラーなのである。しかし追い込もうにも体がついていかず、コンディションも上がっていかない。2015年に移籍したジェフユナイテッド千葉で1年間プレーし、10月に入ったところで「ここが潮どき」と現役引退を決断した。

 どんな現役生活だったか?

 鈴木は一瞬の間をつくった後、こう応じている。

「一言で言ったら、“幸せ”ですよね。こんなキャリアを歩んできた人ってなかなかいないでしょうから。若い頃、どん底を這いつくばってという話は珍しくないかもしれないですけど、一旦上がって日本代表まで行ったのに、またどん底に落ちてまた這いつくばって……。こうなると最初のどん底より精神的にもきついんです。普通、プライドも出てくるから、こんなことできるかっていう人だっていると思うんです。でも自分の場合は、そう思わない。結局自分に力がないんだから、また頑張るしかないだろうって思えるタイプ。誰にもできない、いろんな経験をさせてもらったし、いろんな人に支えてもらった。だから“幸せ”という言葉以外、出てこないです(笑)」

 ブラジルのCFZ時代は絶望を胸に宿し、日本に復帰してから活躍できず、川崎フロンターレで戦力外的な立場にもなった。そこから限られたチャンスをものにして鹿島アントラーズでの三冠、日韓W杯での活躍などまばゆい時期を経験しながらも、ベルギー、セルビアでも苦闘を強いられた。アメリカでは独立リーグで4日間3試合という過酷な遠征も経験した。21年間のプロ生活は陽光などあまりに一瞬で、そのほとんどはいつもギリギリに追い込まれていた。光の見えない真っ暗闇のなかを突き進んだ時間が長かった。

始まりが鹿島ではなかったら「今の自分はなかった」

 選手時代に様々な経験をしたことが、指導者としての強みになっている。その確かな実感が鈴木にはある。

「“幸せ”と言えることのもう一つは、どの選手の気持ちも理解できるんです。自分にはどの経験もありますから。口先じゃなく、体感として持っているので。若い時の苦しい経験、海外の経験、選手として上がっていく経験、逆に落ちた経験、ベテランになって過ごしたことの経験……すべてが活きていると感じるし、この先も指導者として進んでいくうえで活きてくるとも思っています」

 奇しくも鈴木が経営難時代にその一員に加わったホーリーホックが2025年シーズン、クラブ史上初めてJ1昇格を決め、キャリアで2度在籍して現役最後の1年を過ごしたジェフも17年ぶりにJ1の舞台に戻ってくることになった。そしてプロ人生をスタートさせ、在籍期間の最も長いアントラーズが9年ぶりにJ1制覇を果たした。

 始まりがアントラーズだったから、鈴木隆行という我慢強く、勝負強いフットボーラーが育った。

 鈴木は言う。

「アントラーズは高校から獲った選手を、どんなに下手であっても3年間は面倒を見てくれました。自分に対しても長い目というか、成長するところまで我慢して、誠意を持って育ててくれました。鹿島じゃなかったら、今の自分はなかった。何より基礎が大事という部分を含めて、あの時、教えてもらったことが指導者になってからも自分のベースになっています」

 誰もが真似できないキャリアを歩んできた。指導者となってからも、その“続き”があった。(文中敬称略/第8回に続く)

■鈴木隆行 / Takayuki Suzuki

 1976年6月5日生まれ、茨城県出身。日立工業高校から1995年に鹿島アントラーズに加入し、CFZ(ブラジル)、ジェフユナイテッド市原(現・ジェフユナイテッド市原・千葉)、川崎フロンターレへの期限付き移籍を経て、2000年途中に鹿島へと復帰。トニーニョ・セレーゾ監督の下で出場機会をつかみ、リーグ、天皇杯、ヤマザキナビスコカップ(現・YBCルヴァンカップ)の三冠に貢献した。その後はベルギー、セルビア、アメリカでもプレーを経験している。日本代表としても活躍し、2002年の日韓W杯の初戦となったベルギー戦では同点弾を記録するなど、通算55試合11得点を記録。2015年を最後に現役を引退し、現在はUNBRANDED WOLVES SOCCER SCHOOLの代表を務める。

(二宮寿朗 / Toshio Ninomiya)



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二宮寿朗

にのみや・としお/1972年生まれ、愛媛県出身。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。2006年に退社後、「Number」編集部を経て独立した。サッカーをはじめ格闘技やボクシング、ラグビーなどを追い、インタビューでは取材対象者と信頼関係を築きながら内面に鋭く迫る。著書に『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『岡田武史というリーダー』(ベスト新書)、『中村俊輔 サッカー覚書』(文藝春秋、共著)などがある。

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