移籍会見のはずが「行きません!」 念願のイタリアからオファーも…異例の“ドタキャン”の真相

石川直宏氏はFC東京で才能が開花した
現役時代、FC東京で長年に渡り活躍した元日本代表MF石川直宏氏。横浜F・マリノスからFC東京に移籍し、才能が開花。選手としての階段を上っていく。2004年のアテネ五輪を経て、海外への思いが膨らんでいった中、海外移籍のチャンスが巡ってきた。(取材・文=FOOTBALL ZONE編集部・井上信太郎/全7回の4回目)
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2002年4月27日、FC東京に期限付き移籍を果たしたわずか5日後、駒沢陸上競技場には青赤のユニホームに袖を通した石川の姿があった。ナビスコカップの清水戦、いきなり先発し、後半28分までプレー。自身でも驚くほど、プレーも、心も、フィットした。
「合流して5日目ぐらいに試合に出て、結果を残して。これだけ雰囲気違うのかってぐらい、なんか自分に合っていたっていうか。マリノスが悪いとかじゃなくて、発展途上でJ2からJ1に上がって、勢いのあるFC東京というところが、自分に合っていたんだと思います」
2002年7月、ワールドカップ日韓大会の熱気もさめやらない中、Jリーグが再開。1stステージ残り8試合の全てで先発出場を果たし、2得点を挙げて、一気に中心選手に躍り出た。1stステージで10位だったFC東京は、2ndステージで5位にまで順位を上げた。石川が欠場した4試合でチームは3敗。存在感の大きさを示したシーズンになった。移籍期間も延長し、翌2003年も青赤のユニホームを着ることに決めた。
「ずっと迷っていたんです。マリノスは歴史も伝統もあるし、いい選手もいるので、FC東京で自分が中心になれる可能性と、マリノスで中心になれる可能性を考えた時に、やっぱりマリノスが浮かばなかったんです。FC東京で自分が中心になって、自分事としてチームをしていきたいっていう思いが芽生えたんです。でもこの冬では完全移籍なのか、マリノスに帰るのか決められなかった。なのでレンタル延長にしたんです」
2003年には日本代表に初選出。中止された東アジア選手権の代替試合として行われた韓国戦では出場機会はなかったものの、大きな自信をつけた。そして8月、FC東京への完全移籍を決めた。
「僕と同じポジションの佐藤由紀彦さんが、2003年にマリノスに行ったんです。トレードみたいな形になって。それで由紀さんもアシストを量産して、マリノスが優勝した。僕もしっくりきている部分があったので、このまま完全移籍で落ち着かせた方がいいんじゃないかという話をもらって。お互いWin-Winでしたね。あとは日本代表になったっていうのが大きいですよね。当時FC東京で日本代表になった選手って、たぶん由紀さんが候補で入ったぐらいだったんですよ。で、自分が入るようになって、土肥(洋一)さんが入るようになって、加地(亮)君がいて、茂庭(照幸)がいて、今度は今野(泰幸)が入ってきて。そういう第一歩になったという感じでしたね」
A代表も経験し、意気揚々と臨んだ2004年のアテネ五輪。だが初戦のパラグアイ戦を3-4で落とすと、第2戦のイタリア戦も打ち合いの末、2-3で敗戦。第3戦のガーナ戦では1-0で勝利したものの、1勝2敗でグループリーグ敗退となった。自身も出場機会はガーナ戦だけに終わった。
「消化はなかなかできなかったですね。やっぱり世界との差をまざまざと感じたというか。あの舞台で持っている力以上のもの出すっていうか、『ここでこれやるの?』みたいな。例えばイタリアのデ・ロッシのオーバーヘッドとか、本当にそういうものをまざまざと見せつけられて、『世界基準』という言葉の意味が分かった。僕は世界大会で緊張を感じていたけど、イタリアのセリエAでやっている緊張感ってこんなもんじゃないだろうなって。それをどれだけ意識しても、Jリーグの中でそれを継続するのは難しい。そこからチャレンジした選手がやっぱり飛躍したと思います。自分の中ではこのチーム、クラブを大きくしたい、強くしたいっていう使命感と、自分の人生としては海外にチャレンジして、世界基準を体感しながら、アテネや(ワールドユースでの)アルゼンチンでの悔しい経験を、ドイツや南アフリカのW杯で晴らしたいという思いがありました。どう折り合いをつけようか、ずっと悩んでました」
セリエAのトレビゾからオファーが届いた
そんな石川のもとに、イタリアに行くチャンスが巡ってくる。2005年8月、セリエAに昇格したばかりのトレビゾからオファーが届いた。だが決断までに与えられた時間は約半日しかなかった。
「もうめちゃくちゃ迷いましたね。迷ったんですけど、移籍期限ギリギリで12時間後にはもう決めなくちゃいけなかった。昼ぐらいに話をもらって、その日の夜、FC東京の強化部長の鈴木徳彦さんと代理人の西真田さんと3人で、小平で焼肉を食いながら話し合ったんです。そこで僕は『行きます』って言ったんですよ」
A代表へのステップを模索する中で、2004年のリーグ戦は17試合無得点に終わっていた。殻を破れない自分がいた。
「アテネが終わって、目指すのはA代表しかない状況で、なかなかチームでも活躍できていなかったんです。そこでオファーが来た。トレビゾってどこだ?って。全然チームのイメージも思い浮かばない。でもそれって一つのチャンス、きっかけじゃないですか。そこで評価をもらえれば、イタリアのもっといいところにとか、他の国にもって考えたんです。環境を変えるのがきっかけになることは、自分もマリノスからFC東京に行った時にあったので、行きますって言ったんです」
ただセリエAとはいえ、トレビゾという無名クラブ。原博実監督は「おそらく実力もないし、規模感もないから、どうせ守ってカウンターしかないし、頭の上を行ったり来たりするサッカーだろうから難しいだろう」と反対していた。「行きます」と言ったものの、心のモヤモヤは晴れなかった。
「自宅に帰ってずっと考えても、あんまりしっくりこないというか。FC東京に移籍した時は『やってやる』っていうエネルギーが滲み出てたんですよね。それも評価してもらって移籍したんですけど、そういうエネルギーが足りなくて。海外は国内での移籍と違うので、うまくいかないことへの不安とかを冷静に考えた時に、難しいなって思っちゃったんですよ。でも行きますと言ってたから、次の日はパスポートも、荷物も、飛行機の手配も、あっちでのメディカルチェックも、全部準備が整っていたんですよ。朝、FC東京の社長室で了承を得て行くという流れで、僕以外はみんなが行くって思っていたんです。それで、当日朝、社長から『どうするんだ?』って聞かれて、『行きません』って言ったんです」
クラブハウスでは予定していた「移籍会見」ではなく、珍しい「残留会見」が開かれた。この2週間後に、右膝の前十字靱帯を損傷し、長期離脱となった。その後も海外移籍はすることはなかった。でも海を渡らなかったことに、今も後悔はない。
「みんなびっくりしていました。『行かないの?』って。でも原さんは『そうだよな』みたいな。『残って活躍して、また行け』と言ってくれて。で、その日の午後に会見しました。周りからは行けば良かったんじゃないかとか言われますし、行けば行ったで違った人生かもしれないんですけど。でも自分の思いに正直に決断ができたっていうのは、その後の自分の人生においてもやっぱり大きく影響しているので、全く後悔はないです」
海外への思いを封印し、FC東京で戦うことを決めた石川。右膝の負傷がきっかけとなり、大きな転機を迎えることになる。(第5回に続く)
(FOOTBALL ZONE編集部・井上信太郎 / Shintaro Inoue)




















