10クラブ争奪戦で入団「弱いから」 18歳が感じた恐怖…練習で常に「危険なチャージ」

高卒1年目の山田暢久、先輩の福田正博らが「もう怖くてしかたなかった」
Jリーグが始まって2年目の1994年、後にクラブのバンディエラとなる18歳が浦和レッズに加入した。山田暢久というたぐいまれなる逸材で、同一クラブで史上初のJ1通算500試合出場を達成した鉄人である。浦和ひと筋に20年。在籍中に指揮を執った16人の指導者から重用され、GKを除くすべてのポジションをこなす万能選手だった。(取材・文=河野 正)
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山田は全国屈指のサッカーどころ、静岡県藤枝市で生まれた。藤枝市は1964年、全国に先駆けてサッカーのスポーツ少年団を立ち上げた。1970年に創設された全国中学校サッカー大会の初代王者が藤枝市立西益津中なら、静岡県勢として全国高校サッカー選手権で初優勝したのも藤枝東高だ。1966年度には全国高校総体、国民体育大会(現・国民スポーツ大会)、全国高校選手権で史上初の3冠に輝いている。
山田は小学6年のときに市内の選抜チーム、藤枝FCで第15回全国チャンピオンズカップ少年大会優勝。藤枝中1年では13歳以下日本代表として第2回世界少年大会を制し、3年生になると第2回全日本ユース(U-15)選手権で中学日本一の座に就いた。藤枝東高2年でも第3回全日本ユース(U-18)選手権で頂点に立った。
そんな傑物とあってJリーグクラブは争奪戦を展開し、同い年では城彰二(鹿児島実高)と並ぶ目玉選手として話題になった。浦和をはじめ、名古屋グランパスや横浜マリノス(現・横浜F・マリノス)のほか、ジャパン・フットボールリーグのジュビロ磐田や日立FC(現・柏レイソル)など計10チームから獲得の申し出が舞い込んだ。
そのなかから1993年の“2弱”だった浦和と名古屋を最終候補とし、年間最下位に沈んだ“最弱”の浦和を選んだ。当人は「弱いから試合にもすぐ絡めそうだったし、観客の数と熱量がすごかったことや最初に誘っていただいた恩と義理が決め手になった」と理由を説明している。
1994年の浦和は1月17日にチーム練習をスタートさせたが、山田は同31日に静岡県掛川市で始まったサテライトチーム(2軍)のキャンプから参加した。
高校2年から3年連続で日本ユース代表に選ばれており、この年は9月に世界ユース選手権(現・U-20ワールドカップ)の予選を兼ねたアジアユース選手権(現・U-20アジアカップ)を控え、合宿や遠征、トレーニングマッチなどで浦和を留守にすることが多かったからだ。
浦和の第一印象というのがあまりにも強烈で、よどんだチームの雰囲気に肝をつぶしたという。
「自分は少しも悪くないのにボール回しなどでミスすると、すみませんって謝ったんです。ささいなことで選手同士が言い合いになり、自分勝手なことばかり言ってました。喧嘩になりかけたこともよくあった。練習での危険なチャージはしょっちゅうで、試合なら間違いなく警告されていますよ」
18歳はこれがプロの世界なのかと腰を抜かし、恐ろしくなった。気安く近づけない先輩ばかりで、特に福田正博、広瀬治、土田尚史、柱谷幸一、田口禎則、堀孝史、池田伸康が怖かったそうだ。
「監督やコーチに対してそんなことまで言っちゃうんだって驚いたし、もっとびっくりしたのが意見したことで練習メニューが変わっちゃったことですね」
幸運にもデビュー戦は、静岡の高校生にとっては聖地の県営草薙陸上競技場だった。1994年4月27日のサントリーシリーズ(前期)第12節の清水エスパルス戦。水曜開催ながら1万7789人の観衆が集まり、家族や親せきをはじめ、大勢の知人や友人が山田の応援に駆け付けた。
浦和の陣形は4-3-3。クラブ最年少の18歳7か月17日で出場した山田は右ウイングを担当し、左ウイングは福田で、この試合の10日後に日本代表に初選出される佐藤慶明が、センターフォワードに入った。
当時の背番号は固定制ではなく、先発メンバーが1~11番を付けた。攻撃的なポジションを志向した10番の山田は、スピード豊かなドリブルで敵陣へと進入。評判通りの有望株は当たり負けしない頑強なフィジカル、空中戦の強さを披露した。
前半22分の佐藤の先制ヘッドの起点になったのが、山田が左から福田に預けたパスだ。後半23分には右をえぐって最終パスを送り、福田の決定打につなげた。延長前半12分に右膝を負傷しても、Vゴールを奪われるまで119分にわたるフル出場を果たした。
横山謙三監督は「対人プレーの強さはすごい。高卒のデビュー戦にしては合格点だが、思い切りのいいシュートがなかった」と注文をひとつだけ付けた。シュートは後半26分の枠を外した1本だけ。
山田は静岡のスターとあり、浦和の担当記者より地元の新聞社とテレビ局から長く、熱心なインタビューを受けていた。私は監督と福田、佐藤を取材し、山田には翌日の練習後に話を聞いた。
もっとシュートを打てと横山さんが言っていた、と水を向けると「日本代表でもキレキレの福田さんが横にいましたからね。僕は子供の頃から大きな大会でも平常心でプレーできたけど、昨日だけは緊張しました」と前置きすると、横山監督に抗弁するようこう続けた。
「自分でシュートを打ちたかったけど、福田さんの『俺にパスをよこせ』ってオーラみたいなものが怖くて、ゴール近くから打てる体勢でもほとんど福田さんに渡しちゃった。ミスをすれば怒られたし、福田さんのがっかりする表情もたまらなかった。もう怖くてしかたなかった」
福田は“ミスター・レッズ”と崇拝された浦和の象徴的な存在。どんな相手にも臆せず向かっていった山田でも、福田の貫禄と風格に気後れしたようだ。
清水戦から中2日で行われたジェフユナイテッド市原(現・ジェフユナイテッド千葉)戦も、同じ顔触れの3トップが先発。山田はやっぱり福田に何度も怒られたという。
しかし日本代表を率いたこともある横山監督は新人の山田について、「チームの上位3傑に入る能力を持ち、周りも『山田にはかなわない』と思っていたのではないか。私もそう感じていた。強さとスピードと持久力が図抜けており、サッカーに必要なすべての条件を完備した極めて珍しい選手」と評した。
浦和での公式戦に725試合出場したが、委縮して力を出し切れなかったのはあの2試合だけだった。
(河野 正 / Tadashi Kawano)
河野 正
1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。




















