“味方への怒り”で号泣「何なの」 独善的なプレーに…許せぬ思い「やる気なくなる」

2000年に加入し浦和で活躍した阿部敏之【写真:川窪隆一/アフロスポーツ】
2000年に加入し浦和で活躍した阿部敏之【写真:川窪隆一/アフロスポーツ】

浦和で活躍した阿部敏之、エメルソンの独善的なプレーに熱い思いがこぼれた

 浦和レッズの“アベちゃん”と言えば、多くのファンが浦和レッズユースの阿部勇樹監督を思い浮かべるだろうが、“アベちゃん”には元祖がいる。浦和生まれの浦和育ち、2000年に加入したMF阿部敏之がその人だ。甘いマスクの技巧派というイメージが先行するが、芯の強いサッカー求道者というのが実像で、見た目とは好対照な選手だった。(取材・文=河野 正)

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 1992年の新春、帝京(東京)の阿部は、第70回全国高校サッカー選手権で対戦相手の守備を切り裂くパスを次々と繰り出し、得点王に輝いたエースFW松波正信らのゴールをお膳立て。四日市中央工(三重)とタイトルを分け合ったものの、戦後では最多6度目の優勝に尽力した。

 推薦入学先の筑波大はその当時、鹿島アントラーズと練習試合を頻繁に行っていた。2年生の7月にあったトレーニングマッチで、阿部のプレーがエドゥ監督の目に留まり加入を持ち掛けられた。筑波大では公式戦の出番がほとんどなかったこともあり、2年生の履修科目を終えてからという条件で承諾。大学を中退し1995年に鹿島でプロのキャリアをスタートさせた。

 タフな精神力の持ち主に生まれ変わり、人生観にも変化が表れたのがブラジルでの武者修行がきっかけだ。鹿島の英雄ジーコが1996年に創設したリオデジャネイロ州3部リーグ、CFZ・ド・リオに1997年3月から8月まで期限付き移籍したことが、阿部をひとかどのサッカーマンに成長させたという。

「貧しい暮らしのなかでサッカーに打ち込む光景を目の当たりにしたら、サッカーをナメていたというか、甘えていた自分に気づいたんです。彼らにとってサッカーは人生そのもの。もがきながら命懸けで情熱を注ぐ選手を見ていると、自分も本気でやらないといけないって痛感しました。それから意識が変わり、メンタル的にも強くなれた」

 1998年はリーグ戦23試合に加え、ジュビロ磐田とのチャンピオンシップにも2試合出場し、年間王者に就いた。1999年も前年に続いて中盤の重鎮として、名手のMFビスマルクとともに攻撃陣をリードした。

 だが鹿島の主力と認められる存在になったというのに、その地位に未練を残さず移籍を志願する。無鉄砲とも思えるが、もっとうまくなりたい、いろんな挑戦をしたいという向上心がそうさせたのだ。

 鹿島は慰留に努めたが、阿部のチャレンジ精神には勝てなかった。獲得の申し出があった浦和、清水エスパルス、ガンバ大阪のなかからJ2降格が決まっていた浦和を選ぶ。

 はたから見たら鹿島を出るだけでももったいないのに、同じ相手と4度も戦う未知のJ2に身を置く決断をした。「松波とまたやりたい思いもあってガンバも考えたが、浦和は地元なので決めました。J2? 全く関係なかった」と振り返る。2000年1月30日の加入会見でも「地元でプレーしたくてレッズに来た。中盤ならどこでもやるつもりだし、J1復帰に向けてがむしゃらに戦うだけ」ときっぱり言い放った。

 自慢のスルーパスを見てほしい――。そんな月並みな抱負は口にせず、“がむしゃらに戦う”という短い言葉のなかに、サッカーどころに身を投じる使命感や強い決意がにじむ。

 水戸ホーリーホックとのJ2開幕戦は、鹿島時代と同じく4-4-2の左2列目を担当。浦和駒場スタジアムにJ2最多となる1万8422人の観衆が集まるなか、阿部は前半30分にMF小野伸二の右クロスを左足でボレーシュート。ゴール右隅に先制点を突き刺した。

 第15節のサガン鳥栖戦では前半28分に直接フリーキックを決め、後半29分には右足で勝ち越し点。追加タイムにもFW福田正博の突破から獲得したPKを沈め、自身初のハットトリックを完成させた。

 1年目はリーグ戦27試合でチーム4番目に多い8得点。J1に復帰した2001年は、前年の終盤から抜擢されたボランチに定着する。第1ステージはMF石井俊也かMFドニゼッチ、第2ステージはMF鈴木啓太が相方となり、リーグ戦23試合を戦った。

 2001年は2人のブラジル人監督が指揮を執り、外国籍選手も全員がブラジル人で年間順位は16チーム中10位だった。阿部はシーズンを振り返り、戦術に対する所感やチームへの提言をこのように語っていた。

「個人の判断や個人技に頼る戦い方ではなく、グループ戦術を徹底していれば結果は出たはず。チーム内での約束事を増やし、全員が攻守に一体となって組織的に戦えば、もっといいサッカーができると思う」

 独力に委ねる戦い方には否定的だった。その本心が態度と言葉にはっきり表れたことが1度ある。

 2001年10月20日に万博記念競技場で行われたG大阪戦だ。当時は90分で決着しないと15分ハーフの延長戦を実施。この試合は120分の激闘の末、1-1で引き分けた。

 サポーターへの挨拶を終えた阿部の様子がおかしい。記者席から双眼鏡をのぞき込むと、MF土橋正樹に抱えられ手で顔を覆いながら引き揚げてきた。号泣している。何があったのか。それだけが知りたくて、着替えを済ませた阿部がチームバスに乗車するまで話を聞いた。

「エメルソンって何なの。スペースに走っても、サポートに回ってもパスを出さないでひとりでやろうとする。3人に囲まれたって突破することしか考えてないじゃない。だったら僕らを外して守備的な選手をたくさん使い、カウンターだけやればいい。サッカーがつまらない。これじゃ、やる気だってなくなりますよ」

 8月に加入した快足FWエメルソンに対する怒りの涙だった。

 J1復帰が怪しくなっていた2000年終盤、本来スマートに振る舞う阿部が戦う気持ちを伝えるため、意図的に激しく相手に当たって仲間を奮い立たせた。精神的に強くなった男は、チームのためにとことんファイトした。そんな気概を持った選手だからこそ、エメルソンの独善的なプレーが許せなかったのだ。

 翌年、阿部にはうってつけの規律に厳しいハンス・オフト監督が就任。しかし出場4試合にとどまった第1ステージ終了後、ベガルタ仙台に完全移籍してしまう。

 一致団結の精神で戦うことを好んだ阿部。アイドルのような容姿で淡々とプレーする姿からは想像しにくいが、勝負とボールへの旺盛な執着心は闘将という言葉がぴったりだった。

(河野 正 / Tadashi Kawano)



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河野 正

1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。

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