「僕をクビにした男を救ったのは悔しい」 ユニ投げ激怒…元ブラジル代表と浦和監督の“確執”

浦和レッズOBのワシントン(写真は2007年時)【写真:アフロスポーツ】
浦和レッズOBのワシントン(写真は2007年時)【写真:アフロスポーツ】

浦和ワシントンの恨み節「この監督でなかったらタイトルをあと2つは取れた」

 浦和レッズは2007年、AFCチャンピオンズリーグ(ACL)に初挑戦し、日本勢として初の頂点に立った。ご褒美は同年に開催されたFIFAクラブワールドカップ(W杯)への出場権で、ここでも望外の3位という手柄を立てている。(取材・文=河野 正)

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 何もかも浦和の歴史にさん然と輝く伝説の功労者、元クロアチア代表FWトミスラフ・マリッチが天皇杯全日本選手権で積み上げた得点が始まりだった。

 2005年7月に加入したマリッチは、リーグ戦13試合で8得点を挙げ、優勝した天皇杯は初戦の4回戦から決勝まで5試合連続の6ゴール。前身の三菱重工以来、25大会ぶり5度目の制覇によりACL参陣の権利を手に入れたのだ。稼働期間はわずか半年だが、浦和に在籍した歴戦の勇者と肩を並べる英雄となった。

 しかし八面六臂の活躍をしたというのに、クラブは契約を延長しようとせず、新たな外国人フォワードを獲得。2005年に東京ヴェルディでリーグ戦22得点を挙げた元ブラジル代表のワシントンがその人だ。

 2006年の浦和は1月28日に練習を開始したが、ワシントンはビザ(査証)取得などの関係で来日していなかった。

 合流は2月9日で、午前10時半の練習には20分ほど遅れて姿を現した。ギド・ブッフバルト監督の元に小走りで駆け寄り、両手にはめていた手袋を外して握手すると、恐縮したような様子で深々と頭を下げた。私は礼節をわきまえたこの振る舞いに感心したものだ。

「有名な選手だったから、監督のことはよく知っている。チームの雰囲気もいいし、サポーターは日本で一番熱狂的なので気持ち良くやっていけそうだ。浦和に来ることができて良かった」

 この言葉通り、同年は気持ち良くピッチを躍動しゴールを量産。ペナルティーエリア周辺は、まるでワシントンの“特別区”のようでもあった。

 ところがそれから1年1か月後、礼儀正しい態度とは対極の出来事に仰天させられる。新監督に交代を命じられると、怒りに任せて手袋を地面にたたきつけたのだ。にらみを利かせながらユニフォームをベンチ方向に投げつけ、ドレッシングルームへと消えていった。

 ブッフバルト監督という人は、守備での約束事を遵守していれば、ピッチ内では選手に自由を与えた。指揮を執った2004~06年、選手は参謀のゲルト・エンゲルスコーチとともに指導陣に親近感を覚え、とりわけリーグ初制覇を遂げた06年は蜜月関係にあった。ワシントンはマグノ・アウベス(ガンバ大阪)とJリーグ得点王を分け合い、至福のときを迎えていたのだった。

 だがホルガー・オジェック監督が2007年に2度目の登板を任された途端、親和関係は雲散霧消してしまう。

 オジェック監督は最初に指揮を執った1995年、堅守速攻のスタイルを確立して腰砕けのチームを再建。同年のサントリーシリーズ(前期)で3位に躍進し、年間4位にのし上げた。浦和を離れた後は、カナダ代表監督や国際サッカー連盟の技術委員長を歴任していた。

 確執の胎動……。3月7日にACLの1次リーグが開幕。ペルシク・ケディリ(インドネシア)を埼玉スタジアムに迎えた浦和が2-0とリードしていた後半23分、ワシントンに交代指令が出た。激高した背番号21は、手袋とユニフォームを放り投げて怒りをあらわにし、ベンチの指揮官をにらみつけた。

 不平を漏らすチームメイトも少なくなかった。

 4バックを採用したことで、攻撃参加を制限された田中マルクス闘莉王は「3バックに戻してほしい。全然上がれないじゃないか」と不服を申し立てた。開幕から8戦続けて先発したが、第9節で控えに回った小野伸二は「ワシ(ントン)を使いたかったんでしょ。全く意味が分からない。監督には非常に不満がある」と不快感を示した。小野のこういう批判的な発言は極めて珍しい。

 ワシントンは練習をめぐって監督と反目し、第8節の鹿島アントラーズ戦の帯同メンバーから外されていた。それでもエースは得点を重ね、26試合でチーム最多の16得点を稼いだ。

 10月20日のジェフユナイテッド千葉戦。ワシントンはヘッドで自身2点目を決めた前半38分、水本裕貴と衝突して鼻骨を骨折し前半で退いた。次の名古屋グランパス戦からフェイスガードを着けて出場したが、間が悪いことに続く川崎フロンターレ戦の後半から外していた。前半43分、森勇介の肘が鼻に当たって流血したことで頭に血が上り、ペットボトルを蹴り上げて警告を受けると、勝手にベンチへ引き揚げてしまった。

 前半32分のPKでは、監督の指示を無視してキッカーを務めた。「ベンチに帰ったのは痛みと流血があったから。PKの指示なんて聞こえなかったよ」。シーズン佳境を迎えても、両者の関係は修復できなかった。

 Jリーグでは12月1日の最終戦で横浜FCに屈し2連覇を逃したが、すぐにクラブW杯が始まった。

 ワシントンの得点もあり、浦和は初戦の準々決勝でセパハン(イラン)に3-1と快勝。ACミラン(イタリア)との準決勝は0-1で敗れたが、3位決定戦ではエトワール・サヘル(チュニジア)を2-2からのPK戦で下した。

 ワシントンは前後半にヘディングシュートを2本決め、PK戦では一番手を買って出て成功。ACLでは精彩を欠いたが、クラブW杯では最後のご奉公とばかりに大暴れした。

「サポーターとチームに感謝の気持ちを表したくて全力で戦い、世界3位に貢献できて何よりだ。楽しかったこの2年間をいい形で締めくくれてうれしい」

 ワシントンは上機嫌で記者の質問に答えていたが、結びはオジェック監督への恨み節だった。

「仕方ないことだけど、僕をクビにした男を救ってあげたのは悔しいね。彼と問題がなければ、この1年間はずっと(活躍した)きょうのワシントンでいられた」

 ブラジルへ帰国する直前の成田空港でも、「この監督でなかったらタイトルをあと2つは取れた。彼がやるくらいなら、闘莉王が監督になったほうがいい」と言い放ち、これでもかというほど痛罵した。

 指導者と馬が合わない選手など星の数ほどいるが、親のかたきのごとくここまで憎むのも珍しい。プロとしての過剰な自尊心とプライドが、不遜な言動に及んだのだろうか。

(河野 正 / Tadashi Kawano)



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河野 正

1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。

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