「紅白戦でも負けたら泣く」 サッカーの街・清水のプライド…稀代のSBを育んだ“原点”

連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」:市川大祐(清水エスパルス・トランジションコーチ)第1回
日本サッカーは1990年代にJリーグ創設、ワールドカップ(W杯)初出場と歴史的な転換点を迎え、飛躍的な進化の道を歩んできた。その戦いのなかでは数多くの日の丸戦士が躍動。一時代を築いた彼らは今、各地で若き才能へ“青のバトン”を繋いでいる。指導者として、育成年代に携わる一員として、歴代の日本代表選手たちが次代へ託すそれぞれの想いとは――。
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FOOTBALL ZONEのインタビュー連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」。今回は、清水エスパルスのトランジションコーチを務める市川大祐のプロ入りまでの軌跡に迫る。“サッカーの街”清水で磨かれた才能は、ブレることなくJリーグの舞台を目指し、まっすぐに突き進んでいった。(取材・文=二宮寿朗/全5回の1回目)
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サッカーの街、清水に生まれ育ち、清水からその名を轟かせ、そして清水に帰ってきた。
地元の清水エスパルスを代表する選手となって、そしてまた地元で育つ未来のサッカー選手たちに還元していく。市川大祐のサッカー人生は、言わば一つの理想形である。
45歳となった彼は、今季からエスパルスの「トランジションコーチ」に就いている。攻守の切り替えを担当するのかと思いきや、さにあらず。トップチームとアカデミーの融合を促進させていく「移行」の文脈を託された重要なポジション。ジュニアユースの第一期生であり、ユースからトップに昇格してクラブを代表する選手となり、かつ現役引退後はアカデミー、トップチームの両方で指導者畑を歩んできた彼だからこそ担える役職だと言える。
「ユースから今のタイミングでこの選手をトップチームの練習に参加させたらどうかだとか、(練習参加後に)変化が生まれたら今度はどう刺激を入れていけばいいかだとか、ユースの強化ではありながらも結果的にトップの強化につなげていくことが理想です。新しい立場なので最初は手探りではあったんですけど、トップとユースの架け橋になっていければいい。ユースの選手たちの変化を見ることができるというのは、やっぱり面白いですね。
ただ、やっていて思うのは、ユースの選手たちはもっとトップを求めてほしい。受け身な印象がまだまだ強いので、どんどんチャンスをつかみにいってほしいなって思うんです」
待っていては、チャンスをつかめない――。市川の半生を振り返ると、それがよく理解できる。
ジュニアユースでサイドバック転向「このポジション、最高だな」
1980年5月14日生まれ。清水はサッカーボールを蹴るのが当たり前の環境だった。
「小学校に入る前から、友達と公園で集まっては木と木の間をゴールにしてサッカーをよくやっていました。もちろん小学校に上がってからも。昼休みは決まって校庭でサッカーでしたから」
環境が市川の才を育んでいく。
小3の時に清水エリアのジュニア選抜チームであった清水FCに合格して、小6時には全日本少年サッカー大会(全日本U-12サッカー選手権)優勝を果たす。その年、公式戦で負けたのはわずか1度だけという無類の強さを誇った。清水FCは長谷川健太、大榎克己、堀池巧の「清水東三羽烏」をはじめ多くのJリーガーを輩出している名門であり、ここでサッカーの基礎を叩き込まれた。
「周りのみんなのレベルも相当高かったし、清水FCの歴史も教えられていましたからエンブレムの重みも感じていました。負けちゃいけないって思っていたし、そのプライドを持ってプレーしていましたね」
ちょうどJが開幕する1993年にはエスパルスジュニアユースが立ち上がり、優勝メンバーとともに第一期生として加わる。センターバックから右サイドバックにポジションを移し、中学3年生時には日本クラブジュニアユース選手権を制している。
「みんな個性が強いなかで、お互いに要求してというチームでした。仲間なんですけど、負けたくないっていうライバル心がかなり強かったと思いますね。一緒に遊んでいましたし、ホントに仲がいいんです。でもひとたびサッカーとなれば、紅白戦でも負けたら泣くくらい悔しかった。教えられたというよりも、この清水という街がそうさせていたのかなとは今となっては思いますね」
部活のような上下関係もなく、かつ、伸び伸びやらせてもらった感覚が残っている。サイドバックが楽しくて仕方がなかった。
「オーバーラップする、クロスでアシストする、自分でゴールも決める。このポジション、最高だなって思いましたね。サイドに大きなスペースがあって、そこにダイナミックに走り込める。だからもうバンバン上がっていました。上がりすぎだぞとか、そういう注意みたいなものもなかった。もともとセンターバックなので、もちろん守備には自信もありました。そういった指導のおかげもあって、どのようにプレーしたらいいか自分のなかで膨らんでいきました」
日本平でトップチームの試合になれば、ボールボーイを務めながら同じポジションの堀池のプレーを特に観察していたという。スタンドで奏でるサンバのリズムが心地良くもあった。早くこのピッチに立ちたいという思いに駆られた。
年代別日本代表で感じた「自分もそうならなきゃ」
中学卒業後は清水商、清水東とサッカーの名門校に進学するチームメイトがいる一方で市川は迷わずユース昇格を選択する。高校から勧誘の電話が掛かったところで、揺らぐことはなかった。なぜならここで成長していくことが、プロへの一番の近道だと信じていたからにほかならない。
「ユースの試合に出ることもそうですが、当時はサテライトリーグがあったので実力さえあればお客さんが入ったなかでプロの大人と試合ができるし、サテライトの指導者のみならずトップの監督、コーチだって見ているわけじゃないですか。もしパフォーマンスが良かったらトップで試合に出るチャンスがあるということ。アンダー世代の日本代表合宿に呼ばれた時に、稲本(潤一)さん、山口(智)さんもいてトップの試合に呼ばれたから抜けていった。自分もそうならなきゃ、と思ったことを覚えています。
サテライトに初めて出場したのは高1の時。愛鷹で名古屋グランパスと戦って、90分フルにやらせてもらいました。勝利することができて悪いプレーではなかったにしても、まだまだ自分には足りないなって感じるきっかけにはなりました」
技術もフィジカルも全然足りていない。
試合を経験できたことで日々のトレーニングから具体的にイメージして練習に取り組めるようになった。成長が認められ、高2の冬に福島FCとの天皇杯3回戦で終盤に途中出場してトップデビューを果たす。短い時間ながらチャンスを作り出し、ターニングポイントの一戦となった。そしてユースに戻り、Jユースカップで優勝を遂げている。
1997年当時のエスパルスは経営危機が表面化していた時期。トップの選手数自体が少なく、ユースから練習試合や紅白戦に呼ばれることも多くなっていた。市川が狙っていたのはトップでの公式戦出場にとどまらなかった。
「週に1回、トップにいる若手の選手たちと一緒にトレーニングする機会があって、サテライトの監督だった大木(武)さんたちが見てくれていました。監督の(オズワルド・)アルディレスさん、コーチの(スティーブ・)ペリマンさんも自分がどういう選手なのかを知ってくれていたし、(1998年シーズン前の)石垣島キャンプに絶対呼ばれたいという気持ちを抱きながらプレーしていたんです」
年齢は関係ない。自分がどうなりたいかを想像し、目の前にチャンスがあるのならそこに向かっていけばいいだけのこと。その望みが叶い、石垣島キャンプのメンバーに名を連ねることになる。それが激動の1998年の始まりになるとは夢にも思わなかった。
(文中敬称略/第2回に続く)
■市川大祐 / Daisuke Ichikawa
1980年5月14日生まれ、静岡県出身。清水エスパルスユース所属時の1998年3月に17歳でJリーグデビューを果たし、1999年のJ1リーグ2ndステージ優勝、アジアカップウィナーズカップ1999-2000優勝に貢献。2010年の退団まで、チームの右サイドを支え続けた。日本代表には1998年に歴代最年少の17歳322日でデビュー。2002年の日韓W杯にも出場し、グループリーグ第3戦のチュニジア戦では中田英寿のゴールをアシストした。2016年の引退後は指導者に転身し、25年から清水エスパルスのトランジションコーチを務めている。
(二宮寿朗 / Toshio Ninomiya)
二宮寿朗
にのみや・としお/1972年生まれ、愛媛県出身。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。2006年に退社後、「Number」編集部を経て独立した。サッカーをはじめ格闘技やボクシング、ラグビーなどを追い、インタビューでは取材対象者と信頼関係を築きながら内面に鋭く迫る。著書に『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『岡田武史というリーダー』(ベスト新書)、『中村俊輔 サッカー覚書』(文藝春秋、共著)などがある。





















