W杯前に悲劇…日本代表を襲った全治6か月「称賛も批判もない」 求め続けた「喜びの場」

大ケガを乗り越えた田中達也はA代表でも活躍した【写真:近藤俊哉】
大ケガを乗り越えた田中達也はA代表でも活躍した【写真:近藤俊哉】

連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」:田中達也(アルビレックス新潟U-18監督)第3回

 日本サッカーは1990年代にJリーグ創設、ワールドカップ(W杯)初出場と歴史的な転換点を迎え、飛躍的な進化の道を歩んできた。その戦いのなかでは数多くの日の丸戦士が躍動。一時代を築いた彼らは今、各地で若き才能へ“青のバトン”を繋いでいる。指導者として、育成年代に携わる一員として、歴代の日本代表選手たちが次代へ託すそれぞれの想いとは――。

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 FOOTBALL ZONEのインタビュー連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」。浦和レッズ、アテネ五輪での経験を経て成長を続けていた田中達也は、ドイツW杯前の大ケガでリハビリを余儀なくされる。それでも「成長できる時間にもなった」と捉えて復活。南アフリカW杯に向けて、再び日本代表での戦いに戻っていった。(取材・文=二宮寿朗/全5回の3回目)

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 大きな試練であればあるほど、乗り越えたときに強くなる。

 2005年10月15日、浦和レッズが柏レイソルを駒場競技場に迎えた一戦。田中達也は鈴木啓太からのパスを引き出してゴールを挙げるなど4-0でリードする一方的な展開になり、レイソルはすでに2人の退場者を出していた。後半途中、スペースに出されたパスを受け取ろうとした瞬間、土屋征夫のスライディングタックルを受けてピッチに倒れ込んだ。そのまま担架で運ばれ、右足関節脱臼骨折で全治6か月と診断される重傷を負った。目指していたドイツW杯の道は事実上、閉ざされてしまう。

<プロサッカー選手は常に全力でプレーし、皆様に最高のプレーをお見せすることにつとめています。その上でのアクシデントは付き物だと私も十分理解しています>

 土屋が猛バッシングを受けることに対して心を痛め、浦和レッズの公式サイトを通じて誹謗中傷を彼に向けないよう呼び掛けている。

 あれから20年。田中はあらためてこう振り返る。

「ギリギリのせめぎ合いでやっている競技ですし、僕自身、バウルさん(土屋の愛称)のプレーに悪意をまったく感じていなかった。だからそれ以上でもそれ以下でもないんです。自分に起こった数あるなかでの一つのケガという捉え方。バウルさん、別に謝罪しなくていいのにわざわざ病室まで来てくれて。あの人、そういう人なんですよね。ケガと向き合うことで自分としては成長できる時間にもなったのかなとは思います」

 田中はドイツをあきらめてはいなかった。届けられたたくさんの千羽鶴を励みに、懸命にリハビリした。結果的には間に合わなかったものの、ドイツを目指した日々に嘘はなかった。

 ケガはメンタルとの戦いでもある。プレッシャーが自分の背中に乗りかかるから成長できる。それを感じられないことがたまらなく嫌だった。

「自分がプレーをしてチームを勝たせたい。うまくそうできたら称賛されるけど、自分の出来が悪くて負けたら批判される。試合に関われるからストレートに責任感を背負えるところってあると思うんです。でもケガで出られないとなると、それ自体がなくなってしまうのでものすごく難しかった。チームが勝っても(自分に対して)称賛もないし、負けても批判もない。それでは寂しいし、つまらない。ケガで一番大変だったと言えば、責任感を背負いたくても背負えなかったこと」

 ヒリヒリした責任感をずっとずっと求めていた。

“ケガの功名”で左足の精度向上、広がったプレーの幅

 約9か月ぶりに復帰した田中は、ひと味違っていた。2006年7月22日、復帰2戦目となったアウェイでの川崎フロンターレ戦でゴールを奪う。得意のドリブルからの左足ミドル弾。日本代表の新監督に就任したイビチャ・オシムが視察に訪れたなか、パワーアップした姿を示した。オシムジャパン初陣のメンバーに選ばれ、定着していくようになる。

「復帰して最初にゴールしたときは本当にうれしかったですね。以前のようにまたゴールできるようになるのか、またドリブルできるようになるのか、すごく心配でした。ケガから復帰する際はいつもそうなんです。ドキドキする気持ちが常にあって、でも1点取っちゃえばスッキリします(笑)」

 レッズはこの年リーグ初制覇を遂げ、天皇杯との2冠に輝く。2007年は初出場となったACL(AFCチャンピオンズリーグ)でも優勝を遂げる。前年王者・全北現代との準々決勝ではホーム&アウェイでそれぞれゴールを挙げ、準決勝の城南一和戦でもアウェイで同点ゴールをマークする活躍ぶりであった。

 離脱期間で体を大きくし、ボールを蹴れない間は映像でイメージトレーニングを続けた。オフ・ザ・ボールの向上を己に課し、ボールの引き出し方は柳沢敦を、ゴール前の入り方は大黒将志、佐藤寿人を中心に彼らのプレーを見まくったという。

“ニュー達也”のもう一つ、大きな特長が利き足ではない左足でのゴール増加だ。2007年9月、オーストリアで行なわれたオシムジャパンの3大陸トーナメントから帰国した直後のアウェイ、サンフレッチェ広島戦では左足でパンチのある豪快なミドルシュートを叩き込んでいる。

「右足をケガしたことで(復帰に向けたトレーニングから)左で蹴らなきゃいけない。ただ、レッズに入って左サイドで起用されて、縦にドリブルするのはいいけどクロスがうまく上がらなくて、福田(正博)さんに『左足蹴れないんだったら練習したほうがいいぞ』とは言われていたんです。ミシャさんのときにフォワードになってからは、そこまで意識しないようになってしまっていて。左足のことはもともと言われていたことだよなって」

 左足の精度向上はケガの功名だった。プレーの幅が広がり、病気によって退任したオシムからバトンを受けた岡田武史のもとでも継続して代表に招集される。

アジア最終予選で活躍も…届かなかったW杯の舞台

 2008年9月からの南アフリカW杯アジア最終予選にも出場。玉田圭司を最前線に置き、田中は中村俊輔、大久保嘉人とともに2列目に入るようになる。玉田が引いてボールを持ち、田中が裏抜けするのが1つのパターン。ゼロトップが機能して日本は快調に勝ち点を積み上げていく。守備でもボランチの位置まで下がって周りを助け、攻撃になれば空走りにも厭わない。すべてのタスクに全身全霊で応えていくなかでアウェイ、カタール戦では先制ゴールを決めている。

「玉さんがトップで、僕がトップ下みたいな感じで。玉さんはすごくテクニカルな選手なので僕のほうは動き回ってボールを回収したり、機動力を活かしたり。岡田さんは規律をとても大切にする監督でした。僕もそういうところで活きるタイプだと思っていましたから(チームのスタイルに)合うな、と。ハードワークしてできることをやったうえで、ボールが足もとに入ったらドリブルしていく。俊さんがいて、ヤットさん(遠藤保仁)がいて、やりやすかったですね」

 フットボーラーとして進化を示し、最終予選突破に貢献しながらも思いどおりには進んでいかない。相次ぐケガに苦しめられ、代表から離れるようになってしまう。結局ドイツに続いて南アフリカにも届かなかった。

 日本代表という存在は、田中のなかで常にモチベーションとなっていた。

「代表は重み(を感じる)というより、喜びでしたね。すべての日本人サッカー選手から20何人しか選ばれないわけですから。代表は、喜びの場。それしかないですね」

 試練を乗り越えながらのA代表通算16キャップ、3ゴール。それは田中達也の価値を示すものでもあった。(文中敬称略/第4回に続く)

■田中達也 / Tatsuya Tanaka

 1982年11月27日生まれ、山口県出身。帝京高校から2001年に浦和レッズに加入し、1年目からプロ初ゴールを挙げるなど、J1リーグ戦19試合に出場。03年にはナビスコカップ(現・ルヴァンカップ)で大会MVPとニューヒーロー賞を獲得する活躍で優勝に貢献し、浦和に初タイトルをもたらした。13年にアルビレックス新潟に移籍し、21年の現役引退まで9年間在籍した。引退後は新潟トップチームのアシスタントコーチを務め、25年からは新潟U-18の監督を務めている。

(二宮寿朗 / Toshio Ninomiya)



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二宮寿朗

にのみや・としお/1972年生まれ、愛媛県出身。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。2006年に退社後、「Number」編集部を経て独立した。サッカーをはじめ格闘技やボクシング、ラグビーなどを追い、インタビューでは取材対象者と信頼関係を築きながら内面に鋭く迫る。著書に『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『岡田武史というリーダー』(ベスト新書)、『中村俊輔 サッカー覚書』(文藝春秋、共著)などがある。

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