元浦和監督は「僕にとって怖い人」 MF→FW転向…ガミガミ指導でバリバリ成長「メチャメチャ怒られた」

連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」:田中達也(アルビレックス新潟U-18監督)第2回
日本サッカーは1990年代にJリーグ創設、ワールドカップ(W杯)初出場と歴史的な転換点を迎え、飛躍的な進化の道を歩んできた。その戦いのなかでは数多くの日の丸戦士が躍動。一時代を築いた彼らは今、各地で若き才能へ“青のバトン”を繋いでいる。指導者として、育成年代に携わる一員として、歴代の日本代表選手たちが次代へ託すそれぞれの想いとは――。
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FOOTBALL ZONEのインタビュー連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」。浦和レッズに加入した田中達也は、1年目から出場機会を得ていたが、ハンス・オフト監督の就任によって成長が加速する。悲願の初タイトル、アテネ五輪出場とステップアップし、活躍のステージはA代表へと移っていった。(取材・文=二宮寿朗/全5回の2回目)
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ひと皮むけるには、自分の力だけではどうしようもならないことがある。
2001年に帝京高校を卒業して浦和レッズに入団した田中達也にしても、それは例外ではなかった。1年目から出場機会を得て3ゴールを決めていたとはいえ、ドリブルという自分のストロングも、基本技術もまだまだ高めていかなければならなかった。
日韓ワールドカップイヤーとなる2002年、レッズにやって来たのが元日本代表監督のハンス・オフトであった。
オフトはチームをオーケストラに例えて規律、基本、調和の大切さを説いたという。ボールを受けたらとにかくドリブルで仕掛けていこうとすると、オフトから「顔を上げろ!」という野太い声が飛んでくる。対峙する相手を抜くための前傾姿勢は、裏を返せば視野を狭くしてしまう。周りと呼吸を合わせられなければオーケストラの一員とはなれない。
「オフトさんからはトレーニング中に『達也は何のためにドリブルをしているんだ? ゴールするためだろう? ドリブルを選択するのであればその先にゴールがつながっていなければ、ゴールに近づいていかなければ意味がない』と何度も言われました。
僕はいつもメチャメチャ怒られていましたよ。それこそ基本のところ。『どうしてトラップができないんだ』『どうしてそのポジションにいるんだ』とか本当にいろいろと。だからオフトさんは僕にとって怖い人でした」
1年目はサイドハーフで使われていたものの、オフトからフォワードとして起用される。ドリブルはあくまで手段であって、ゴールが目的であることをコンコンと叩き込まれた。ただいくら注意されても、反発する気持ちを抱いたことはなかった。
「まだ若いから、怒られるとムカついたりイラついたりして、何年後かになって自分のために言ってくれたんだと分かるみたいな話ってよく聞くじゃないですか。でも自分の場合、そういった感情は最初から一切湧かなかった。自分をちゃんと見てくれているし、自分のことをちゃんと思って言ってくれているんだと分かっていましたから。僕自身もまだまだ足りないって思っていたので」
オフトのガミガミによって、バリバリの成長を遂げていく。翌2003年はゴール数を背番号と同じ11に伸ばすことができた。
消化不良だったアテネ五輪「力のなさを痛感させられた」
彼の名を大きく轟かせることになるのが、鹿島アントラーズとのヤマザキナビスコカップ(現YBCルヴァンカップ)決勝である。前年は同じカードで敗れて準優勝に終わっており、レッズ悲願の初タイトルに向けて5万人をのみ込んだ東京・国立競技場は異様な雰囲気に包まれていた。
2-0とリードして迎えた後半11分だった。左サイドに開いてパスを受けた田中は相手をかわしながらマイナスにボールを運び、目の前が空いたとみるや右足を振ってミドルシュートを決めた。立ち位置、トラップ、そしてゴールを奪うためのドリブル。オフトから口酸っぱく言われてきたことが、この一発に凝縮されていた。4-0と圧倒してレッズは初タイトルを手にし、20歳の田中は大会MVPとニューヒーロー賞の2冠に輝いている。優勝後の会見でオフトはこのシーズン限りでの退団を口にした。わずか2年間であったが、オフトの存在なくして田中の飛躍はなかった。
「あの試合、わりかし落ち着いて試合に入れたなっていうことを覚えています。いろんな面で成長できたし、何より自信を持てるようになった1年でした。僕にとってナビスコカップの優勝はとても大きいものになったし、オフトさんのおかげです」
イングランド代表FWマイケル・オーウェンになぞらえて“ワンダーボーイ”と呼ばれるようになる。レッズの赤いユニフォームが映え、ゴールをイメージしながらドリブルでグイグイと迫っていく姿は“火の玉ボーイ”でもあった。鈴木啓太、山瀬功治、長谷部誠、そして田中と若い才能が伸び、オフトのもとで土台が築かれたレッズは真の強豪となっていく。
田中には、もう一つの戦いがあった。アテネ五輪出場権を勝ち取り、本大会のU-23日本代表メンバーにも選出された。
2004年8月12日、グループリーグ初戦のU-23パラグアイ代表戦。先発の2トップには大久保嘉人、高松大樹が入り、田中はベンチスタートとなる。
日本はミス絡みで早々に失点。オーバーエイジ枠で入った小野伸二が2つのPKを決めるが2-4とされた後半途中、田中が投入される。後半36分、スピードに乗って右サイドからのセンタリングで大久保嘉人のゴールを呼び込んだ。田中の投入によってチームは活性化したが、あと1点が届かなかった。
2戦目はアンドレア・ピルロ、アルベルト・ジラルディーノ、ダニエレ・デ・ロッシを擁するイタリア。またしても立ち上がりに失点するなど前半を1-3で折り返す。流れを変えるべく田中は後半スタートから入って左ペナルティエリア角からシュートを狙うなど果敢にアタックした。アディショナルタイムの高松のゴールで1点差に迫るも、反撃はここまで。グループリーグ敗退が決まった。
「ジラルディーノ、ピルロ、デ・ロッシとテレビで観ているような選手と戦ってやっぱりすごいなと思った一方で、負けたとはいえ日本も全然やれるなって感じました。アテネオリンピック全体の感想としては消化不良の大会。最後のガーナ戦含めてすべて途中出場でしたし、スタメンで出られなかった悔しさと、自分の力のなさを痛感させられた大会にもなりました」

目指したドイツW杯…A代表初招集で感じた先輩たちのオーラ
さらに成長していくには、どこを目指していけばいいか。
オリンピックの次にA代表入りを目標に置くのは自然な流れ。「アテネ経由ドイツ(W杯)行き」はU-23代表を指揮した山本昌邦監督からずっと言われてきたことでもあった。
基礎技術を高め、自分のストロングを磨いてとんがったものにする。自分の原点を決して忘れず、日々のトレーニングに落とし込んでいく。自分の力不足と思ったアテネでの悔しい気持ちを忘れることはなかった。
レッズでの活躍が認められてA代表のジーコ監督から2005年7月、東アジア選手権(現・EAFF E-1選手権)のメンバーに初招集され、出場2戦目となった中国代表戦で左ミドルをゴールに突き刺して初ゴールをマークする。積極的に仕掛けていく姿勢はジーコにも好印象を与えた。
「ツネさん(宮本恒靖)、アツさん(三浦淳寛)はじめ、先輩たちにプレーの落ち着きやオーラを感じて、自分もこういう大人の選手になりたいと思ったことを覚えています。日本代表に選ばれる人は基礎技術が高いし、それぞれのストロングもある。この場所にまた呼ばれたいと思いました」
スタートラインに立ったばかりとはいえ、ドイツW杯が視野に入ってきたのは事実。ひたすら目標に向かっていこうとするなか、大きな試練が待ち受けていた――。(文中敬称略/第3回に続く)
■田中達也 / Tatsuya Tanaka
1982年11月27日生まれ、山口県出身。帝京高校から2001年に浦和レッズに加入し、1年目からプロ初ゴールを挙げるなど、J1リーグ戦19試合に出場。03年にはナビスコカップ(現・ルヴァンカップ)で大会MVPとニューヒーロー賞を獲得する活躍で優勝に貢献し、浦和に初タイトルをもたらした。13年にアルビレックス新潟に移籍し、21年の現役引退まで9年間在籍した。引退後は新潟トップチームのアシスタントコーチを務め、25年からは新潟U-18の監督を務めている。
(二宮寿朗 / Toshio Ninomiya)
二宮寿朗
にのみや・としお/1972年生まれ、愛媛県出身。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。2006年に退社後、「Number」編集部を経て独立した。サッカーをはじめ格闘技やボクシング、ラグビーなどを追い、インタビューでは取材対象者と信頼関係を築きながら内面に鋭く迫る。著書に『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『岡田武史というリーダー』(ベスト新書)、『中村俊輔 サッカー覚書』(文藝春秋、共著)などがある。





















