高校屈指の名門で磨いた「とんがったもの」 3年間で休みは1週間…名ドリブラー・田中達也の原点

帝京高時代の思い出を語った元日本代表FW田中達也【写真:近藤俊哉】
帝京高時代の思い出を語った元日本代表FW田中達也【写真:近藤俊哉】

連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」:田中達也(アルビレックス新潟U-18監督)第1回

 日本サッカーは1990年代にJリーグ創設、ワールドカップ(W杯)初出場と歴史的な転換点を迎え、飛躍的な進化の道を歩んできた。その戦いのなかでは数多くの日の丸戦士が躍動。一時代を築いた彼らは今、各地で若き才能へ“青のバトン”を繋いでいる。指導者として、育成年代に携わる一員として、歴代の日本代表選手たちが次代へ託すそれぞれの想いとは――。

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 FOOTBALL ZONEのインタビュー連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」。今回は、アルビレックス新潟U-18の監督を務める田中達也のルーツに迫る。徹底して“ストロングを伸ばす”ことにフォーカスする指導論は、サッカー漬けだった帝京高校時代に培われた。1対1の練習に明け暮れた日々が、田中を夢だったJリーグの舞台へと導いていく。(取材・文=二宮寿朗/全5回の1回目)

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 もうすっかり、いやもうとっくに新潟の人である。

“情熱のドリブラー”田中達也は浦和レッズで12年間プレーした後、契約満了によって2013年からアルビレックス新潟へ。9年間在籍して2021年で現役を退くと指導者となってトップチームのアシスタントコーチに就任した。そして今年からU-18監督を務め、若い才能を育てている。新潟に来てから13年目に入り、浦和にいた期間よりも長くなった。

「寒いのがすごく苦手なんです。新潟の寒さにも、雪のときの運転にもだいぶ慣れてきましたね。食事もおいしいですし、本当にいいところです」

 42歳になっても若々しく、姿勢良く歩く姿は、ボールが入ればすぐにドリブルのスイッチが入るピッチ上のたたずまいを思い起こさせる。

 田中が指導するアルビレックス新潟U-18は現在、高円宮杯U-18プリンスリーグ北信越1部において首位を走っている。10チーム中6位でフィニッシュした昨季と比べてもチームには勢いがある。

 田中が選手たちの意識に刷り込ませているのが、基本技術を高め、自分のストロングを伸ばしていくこと。長い現役キャリアのなかで培った、田中の哲学だと言っていい。

「個のストロングを出していく、活かしていくには基本技術がないと難しい。別に小野伸二さんのように(トラップで)ピタッと止めろと求めているわけじゃないんです。自分のストロングを発揮しやすいところまでスムーズに持っていけるくらいのコントロールを身につけてもらえればいい。全部の要素が70点、80点ある選手は、それはそれで一つの特長だと思いますが、一人ひとり何か“とんがったもの”を持ってほしいというのは選手にも伝えています」

 誰かから借りてきた言葉ではなく、自分の経験からつむいだ言葉。だからこそ選手たちの心にも刺さるのだと思えた。

 とんがったもの。

 田中はドリブルという、まさに飛び抜けた武器を磨き上げて一時代を築いた。浦和レッズ黄金期を象徴する一人であり、アテネ五輪出場を果たし、A代表でも16試合3ゴールを記録している。輝かしいキャリアの一方、相次ぐ怪我との戦いでもあった。それでも己を高めて試練を乗り越えて必ずピッチに戻ってくる。田中達也のサッカー人生そのものが、とんがっていると言えるのかもしれない。

朝から晩まで練習漬け…寮生活の思い出は「サッカーしかない」

 1982年11月、山口・周南市生まれ。中3時に県選抜メンバーに入ったものの、県内の高校からサッカーでの勧誘はなかったという。中学でサッカーをやめることも考えたが、同級生の兄が東京の強豪・帝京高校サッカー部にいたことが縁となる。毎月のようにセレクションがあることを聞きつけて、夏休みに受けることにした。「軽い気持ち」だったというが、「毎回150人くらいくる」狭き門を突破して入学が決まった。

 上京しての寮生活。高校時代の思い出は「サッカーしかないですよ」と苦笑いを浮かべる。朝6時に起床して6時半には登校して朝練から始まり、授業を終えてからみっちり練習して寮に帰ってくるのは夜10時。休みは3年間トータルで1週間ほどしかなかったと記憶している。

 田中が入学する前年、帝京は高校選手権決勝で東福岡と対戦し、1-2で敗れた。ピッチが白に染まった雪上決戦は、今も語り草となっている。その翌年の決勝も同じカードとなり、背番号14を着けた1年生の田中が先発のピッチに立った。

 大抜擢だった。“和製ロナウド”とも呼ばれた1学年上の矢野隼人が先制ゴールを挙げるも、結局は2-4で敗れてリベンジを果たせなかった。

「それまではスーパーサブで使ってもらって、この大会初めてのスタメンでした。途中からならドリブルしていくことをまず考えれば良かったのですが、(スタメンだと)守備のところ、連係のところでいろんなタスクが増えて、言ってしまえば自分の実力不足。もっと言えば基本技術がないから、自分のストロングも出せない。足を引っ張ってしまったなって。上手な3年生の先輩に代わってスタメンだったので本当に申し訳なかったし、かなり悔しさがありました。自分のターニングポイントになった試合ですね」

 落ち込んでいる暇はなかった。申し訳ないと思うなら、悔しいと思うなら、サッカー漬けの毎日のなか成長を示していくしかなかった。基本技術を高めていくとともに、チーム練習以外は1対1に費やしたという。対面の相手をどうやってドリブルでかわしていくか――。気がつけば1対1だけで2、3時間。自分の武器をとことん伸ばそうとした。練習は決して嘘をつかない。練習量だけは誰にも負けていない自負もあった。名将、古沼貞雄監督のもと、どんどんサッカーにのめり込むことができた。

「僕だけじゃなくて、みんなサッカー漬けですから、古沼先生もコーチングスタッフも同じ時間、ピッチにいるわけです。今振り返っても感謝しかありません。古沼先生は、フォワードの選手をディフェンダーにしたり、逆にディフェンダーの選手をフォワードにしたり、ちゃんと成功させるので、見る目が違うなって思っていました。本当にすごい先生ですよ」

高卒で浦和へ「あのサポーターのもとでプレーしてみたい」

 同期には後に湘南ベルマーレで活躍する田村雄三(現在はJ2いわきFC監督)らがいる。高2の選手権は準々決勝で松井大輔、那須大亮のいる鹿児島実に敗れ、高3時は切符を勝ち取れなかった。それでも自分だけの“とんがったもの”を引き上げていくことができている感触はあった。

 卒業後の進路はサッカーでの大学進学を予定していた。彼にとってJリーガーは、「遠い夢のような職業」だったからだ。高3に入るとFC東京の強化指定選手となり、夢を現実として考えるようになる。そしてオファーが届いた浦和レッズへの加入を決める。

「あのサポーターたちのもとでプレーしてみたいなという気持ちが一つ。そして伸二さん、福田(正博)さん、岡野(雅行)さんがいて、そういうすごい人たちとやってみたいと思ったんです。同じ年に、井原(正巳)さんもレッズに入ってきて、すごい皆さんたちとサッカーができるんだなと思いました」

 特に福田は、少年時代に憧れた人でもあった。袖を通した赤いユニフォームはしっくり来た。物怖じしないそのキャラクターも、成長への後押しとなる。血潮がたぎる若き田中達也がいた。(文中敬称略/第2回に続く)

■田中達也 / Tatsuya Tanaka

 1982年11月27日生まれ、山口県出身。帝京高校から2001年に浦和レッズに加入し、1年目からプロ初ゴールを挙げるなど、J1リーグ戦19試合に出場。03年にはナビスコカップ(現・ルヴァンカップ)で大会MVPとニューヒーロー賞を獲得する活躍で優勝に貢献し、浦和に初タイトルをもたらした。13年にアルビレックス新潟に移籍し、21年の現役引退まで9年間在籍した。引退後は新潟トップチームのアシスタントコーチを務め、25年からは新潟U-18の監督を務めている。

(二宮寿朗 / Toshio Ninomiya)



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二宮寿朗

にのみや・としお/1972年生まれ、愛媛県出身。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。2006年に退社後、「Number」編集部を経て独立した。サッカーをはじめ格闘技やボクシング、ラグビーなどを追い、インタビューでは取材対象者と信頼関係を築きながら内面に鋭く迫る。著書に『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『岡田武史というリーダー』(ベスト新書)、『中村俊輔 サッカー覚書』(文藝春秋、共著)などがある。

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