手紙に書かれた「不合格」 家族の前で初めて涙…名門落選が代表への転機「覚悟を決めました」

新潟L滝川結女の幼少期「足元の技術をつけないと」
女子サッカーの未来を考えるーー。WEリーグとFOOTBALL ZONEの共同インタビュー企画「WE×ZONE 〜わたしたちがサッカーを続ける理由〜」がスタート。5年目を迎えたWEリーグで日々奮闘する選手たちの人生に迫る。第1回はアルビレックス新潟レディースのなでしこジャパン(日本女子代表)FW滝川結女。“新発田のアイドル”として知られる26歳の点取り屋が歩んだ道筋とは。連載1回目は初めての挫折について。(取材・文=FOOTBALL ZONE編集部・小杉舞/全6回の1回目)
【PR】DAZNを半額で視聴可能な学生向け「ABEMA de DAZN 学割プラン」が新登場!
◇ ◇ ◇
封を切り、泣き崩れた。「不合格通知」。明るく天真爛漫な滝川にとって初めての挫折。滝川のサッカー人生を変える1つのターニングポイントだった。
1999年8月31日、滝川家に長女が誕生した。結女少女がすぐに夢中になったのが、父と5歳年上の兄が愛するサッカー。5歳でボールを蹴り始め、小学生から地元サッカークラブで男の子に混じって、一人で技術に磨きをかけた。
「髪の毛も短かったし、みんなからは男の子みたいに接されていましたね。試合に行って、相手の監督も『あの子女の子だったの!?』みたいな気付かれない感じだった。県トレセンとかは女の子、1人でした。低学年の時は父と監督から『足元の技術をつけないと』と言われて、ユーモアがある監督だったので練習試合ならパス禁止、パスしたら即交代とか特別なルールがありましたね」
ひたすら1対1やドリブルの練習に励み、放課後は1人ゴールに向かって蹴り続ける。「小学校の先生と大人になって会うと『ずっとやっていたよね、よく見ていたよ』と言われて。兄や父と自主練習する毎日でした」。小学5年生の時、なでしこジャパンがFIFA女子ワールドカップドイツ2011で宿敵アメリカを倒して優勝。2度のビハインドを追いながらも追いつき、120分PK戦の激闘の末掴み取った栄冠を見て「自分も将来絶対日本代表になりたいと初めて夢を持った」。そこからはトップを目指して逆算し、歩むべき道を選択した。
「小学校6年の時、今後のことを考えた時にアカデミー福島を受けたんです。でも見事落ちて。しかも1次で落ちて」

JFAアカデミー福島は「不合格」 選択して掴んだ
1次選考はフィジカルテストや基礎技術、ミニゲームが試験内容だった。「結構、自信満々だったんです。正直、身体能力は低いと思うんですけど、ゲームや8の字ドリブルもあって、そういうところは自信があった。初めての挫折だったので号泣して……。目標としてやっていたので」。届いたのが1通の手紙。家族全員で囲んで封を切った瞬間、飛び込んできた「不合格」の文字に頬を伝う涙を抑えきれなかった。
「親もそんな姿を初めて見たと思う。『アカデミー福島に行くのが全てじゃないよ。頑張って上に行けばいいだけだから』と言ってくれて、めちゃくちゃ慰めてくれた。気持ちにはしばらく切り替えられなかったですけど、覚悟を決めましたね」
サッカーを始めてからトップを走ってきた滝川にとって突きつけられた現実はあまりに残酷だった。それでも自分で“決めた”、次なる道。中学からは楠クラブレディースに所属し、年代別代表にも選出された。もう振り返らない。自分の選択に後悔はなかった。
「中1の時に年代別代表に選ばれて遠征とか行って、評価してもらえているということに対して自信を持てましたし、チームが藤枝順心高校が近くにあったので、練習試合をやったりとか、同い年というよりも年上のチームと練習試合することがすごく多かった。(高校は)強いところにいきたいなと思っていたので、まずは自分が個人的にも年代別に選ばれ続けることが大事だと思いましたし、その時はジュニアユースの大会も初めての全国大会に出ることができて、積み上げないといけないと思っていた。そういう感情の中での3年間でした。自分が引っ張っていこう、と」
諦めなかった。負けなかった。12歳で経験した大粒の涙を忘れたことはなかった。自らの中にだけ仕舞い込み、強くなった。中学卒業後は切り拓いた舞台、名門高校・常盤木学園へ進学する。夢の実現とは積み重ねーー。まさに体現しているのが滝川結女だ。(第2回につづく)




















