16歳で将来嘱望→5年で2度クビ 反発してしまった周囲の心配「違うチームだったらできんだよ」

現役時代の船越優蔵氏【写真:産経新聞社】
現役時代の船越優蔵氏【写真:産経新聞社】

U-20日本代表を率いる船越監督の現役時代に脚光

 U-20日本代表が9月27日に開催されるU-20ワールドカップに挑む。このU-20日本代表を率いているのは船越優蔵監督。国見高校に在籍した16歳のときには将来日本を背負って立つ、釜本邦茂二世になるのではないかと謳われ、22歳のときにはJクラブが契約満了を告げた。(取材・文=森雅史/前後編の前編)

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 1993年、5月にJリーグが華々しくスタートした年の8月にU-17世界選手権(現・U-17ワールドカップ)が日本で開催された。このチームの不動のFWが船越。大会ではスローインの代わりにボールがタッチラインを出た場所からのFKでスタートする「キックイン」が採用されていた。日本はそのキックインから194センチの船越に合わせてゴールを狙うという作戦だった。

 日本は初戦のガーナに0-1で敗れ、2戦目のイタリアには0-0で引き分ける。そして第3戦のメキシコを船越、松田直樹(故人)のゴールで2-1と下し、準々決勝に進出した。そして準々決勝でナイジェリア1-2(日本のゴールは中田英寿)とされ、大会を終えた。なお、日本の初戦の相手ガーナ、準々決勝の相手のナイジェリアが決勝で対戦し、ナイジェリアが2-1と勝利を収めている。

 このときのナイジェリアにはヌワンコ・カヌ、セレスティン・ババヤロ、イブラヒム・ババンギダなどがいて、彼らは1998年フランスワールドカップで大活躍を見せる。

 当時のJリーグブームもあって、船越には多くの注目が集まった。Jクラブが争奪合戦を繰り広げた中で船越が選んだのはガンバ大阪。1996年に青黒のユニフォームに袖を通すことになったが、ヨーロッパ志向があった船越はヨーロッパ留学を入団の条件としていた。

 そしてまだJリーグでの出場もなかった1996年6月、船越はオランダのテルスターに期限付き移籍をする。手応えも感じていたものの、1年後にはG大阪に呼び戻され、日本でプレーすることになった。

 船越にとって誤算だったのは、G大阪が強烈なストライカー、パトリック・エムボマを獲得していたことだった。1997年に加入すると、リーグ戦28試合に出場し25得点。開幕戦ではリフティングをしながらターンしてボレーシュートを決めるなど、すぐ「浪速のクロヒョウ」というあだ名がつくほどのインパクトを残して得点王にも輝いた。

強力助っ人の陰に隠れ実力発揮できず

 エムボマの陰に隠れた船越はリーグ戦2試合の出場に留まる。そしてシーズン途中でエムボマが移籍した1998年もポジションを掴むことができず、リーグ戦ではわずか1試合に起用されたのみだった。エムボマの代わりに獲得されたアント・ドロブニャクの壁を破れなかったのだ。のちに船越はそのころを「僕はまだ若くて馬鹿で、自分の実力も分かってないし、我慢ができなかったし、先も見られなかった」と振り返る。

 周囲には、才能ある選手が実力を発揮せずに終わっていくのを心配してくれる人物もいた。G大阪のコーチで元日本代表選手だった西村昭宏や副島博志は船越を何とか成長させようと、アドバイスしたりときには苦言を呈したりもした。しかし、船越は聞く耳を持っていなかった。「何言ってんだよ。違うチームだったらできんだよ」と反発してしまったのだ。

 結局1998年、船越はガンバで契約満了となる。U-17世界選手権で活躍した中田や他の国の選手たちが同年のフランスワールドカップで活躍していたのとは正反対の立場になってしまった。

 1999年、J1のベルマーレ平塚に移籍。最初は順調に試合に出場していた。ところが「次第にメッキが剥がれた」と12試合出場で1ゴールのみ。しかも出場回数が少なく、時間を持て余し、酒に費やす時間が増えた。そしてコンディション不良でまた出番がなくなる。悪循環に体もいい状態を保てなかった。

 その年、チームはJ2に降格した。船越も契約満了となった。高校を卒業するときには獲得に多くのクラブが手を挙げたが、もう他チームからの電話は鳴らなくなっていた。

「サッカー辞めないといけない状況でした。いざ自分がそういう状況に置かれて真剣に考えたときに、後悔しかなかったですね」

 契約終了を申し渡された夜、船越は同じように契約終了を申し渡された高校の先輩と食事をした。先輩の口からはクラブや監督の悪口は出なかった。このとき、船越には不満を言っても何も改善されないことがよく分かった。いろいろな状況を受け入れ、課題に取り組まなければいけないと心に誓った。自分が置かれた状況を話して、ベクトルが己に向いた。

 だが、本当は自分でも分かっていた。試合に出られない不満を抱えながら遊んでいたときも、どこかに「これではいけない」という気持ちがあったのだ。先輩の声を聞きながら、船越はそれまで耳を閉ざしていた自分の中の声がしっかり響くようになったのを感じていた。

 しかし状況は最悪だった。16歳で日本の将来を背負っていた船越は、その5年後にサッカーを辞めなくてはならなくなっていた。(後編に続く)

(森雅史 / Masafumi Mori)



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森 雅史

もり・まさふみ/佐賀県出身。週刊専門誌を皮切りにサッカーを専門分野として数多くの雑誌・書籍に携わる。ロングスパンの丁寧な取材とインタビューを得意とし、取材対象も選手やチームスタッフにとどまらず幅広くカバー。2009年に本格的に独立し、11年には朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の平壌で開催された日本代表戦を取材した。「日本蹴球合同会社」の代表を務め、「みんなのごはん」「J論プレミアム」などで連載中。

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