W杯優勝の裏にあった葛藤「もう代表を辞めたい」 元なでしこエースの人生を変えた日「自信過剰になっていた」

2011年ドイツW杯の初戦で先制点を挙げ、チームメイトに祝福される永里さん(中央)【写真:アフロ】
2011年ドイツW杯の初戦で先制点を挙げ、チームメイトに祝福される永里さん(中央)【写真:アフロ】

ドイツW杯で世界一に「仲間の愛をすごく感じた大会だった」

 元なでしこジャパン(日本女子代表)のエースストライカー・永里優季さんは3月に37歳で現役を退き、9月15日に荻野運動公園陸上競技場(神奈川県厚木市)で開催される引退試合を控えている。今回、ピッチ上の厳しい表情とはまったく違う、柔らかな笑みをたたえながら、「FOOTBALL ZONE」の独占インタビューに応じた。ワールドカップ(W杯)で世界を制し、五輪で銀メダルを獲得するなど、なでしこジャパンの一員として世界と戦った日々について振り返った。(取材・文=FOOTBALL ZONE編集部・砂坂美紀/全3回の1回目)

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 永里さんは16歳でなでしこジャパンに初選出され、代表通算132試合58ゴールを記録。澤穂希さんに次いで歴代2位の得点数を誇る。2011年、ドイツW杯で日本の初制覇に貢献。あれから約14年が経った。

「優勝したという結果が、これほどまでに自分のキャリアに影響を与えることになるとは思わなかった。現役を長く続けてみて、それが本当に身に染みて感じたことですね」

 当時の想いを、しみじみと語る。

「その時は苦しいことの方が多かったけれど、仲間の愛をすごく感じた大会でした。自分なりにチャレンジをして、失敗をして。でも、チームとしては結果が残せた、いろんな感情が混じり合っていて。自分的には、何も後悔はなかったです。大会を通して、仲間との絆が深くなり、より深いところにいける関係性になれたから」

 引退試合で『Yuki Friends(優季フレンズ)』として名を連ねるメンバーには、ともに世界一となった仲間たちが多くいる。

「あの大会から10年以上経って、日本に帰った時も、仲間たちとの繋がりがどんどん深いものになっていると気づいて。結局、最後に繋がり合っているのはあの時の仲間たちです」

ゴールを取ることでしか「自分の価値を示せない」 代表とクラブの違いに苦悩

 当時の佐々木則夫監督は「攻守にアグレッシブなサッカー」を標榜していた。4-4-2の陣形で、複数人でボールを奪い、攻撃につなげる。ポゼッションサッカーを志向し、どんな局面でも相手にプレッシャーをかけ続ける必要があったため、FWであっても守備に汗をかく必要があった。一方で、2009-10シーズンにUEFA女子チャンピオンズリーグ(女子CL)を制した所属クラブのポツダムでは、FWとしてとにかくゴール前での強さが求められていた。なでしこジャパンでの役割とは、大きなギャップがあったのだ。

「(ドイツで結果を残していたことで)自信過剰になっていた部分はあったと思います。(ポツダムでは)ゴールを取れていて、『ゴールでしか自分の価値を示せない』と思って。それ以外のことに価値はないという、極端な思考でした。それ(得点を取るための最適な動き)をやってこそ、価値のある選手として認められる世界で生きてきたから」

 W杯開幕前の合宿から、代表とクラブで求められる役割の違いに苦悩する場面がしばしば見られた。初戦のニュージーランド戦(2-1)では先制ゴールを決めて勝利に貢献したものの、以降は不発。準々決勝・ドイツ戦(1-0)ではハーフタイムに交代を命じられ、準決勝と決勝は途中出場となった。

 もどかしさが募るなかで、仲間たちは見守り続けた。葛藤を続ける彼女に優しく接し、声をかけてくれた選手が多くいた。

「覚えている限りだと、(宮間)あやは(準々決勝の)ドイツ戦の後はずっと一緒にいました。あと、山郷(のぞみ)さんと福ちゃん(福元美穂)のゴールキーパー2人が、私がベンチにいる時も常に横に座って寄り添ってくれて。私が『もう代表を辞めたい』とこぼしたら、山郷さんが『あなたはこのチームに必要だから』と切々と言ってくれて」

 仲間たちの温かい配慮と言葉が心に沁みわたる。ドイツで孤独に闘ってきた日々とは違う、日本代表のチームメイトとの濃密な時間を過ごしたことで、また一つ成長することができた。

「『自分を必要としてくれている』と感じることが、たぶんできていなかったんですよね。つらかった。だから、実際にそうやって言葉にしてくれたことが救いの手に、きっかけになって、『この人たちのために変わっていかなきゃいけない』って思えたんです」

ドイツW杯準決勝前日の決意「私の違うサッカー人生が始まった」

 ターニングポイントになったのは、準決勝のスウェーデン戦(3-1)の前日だった。

「一人で街のカフェに行って、ノートブックを開いて、ジャーナル(思考の記録や整理)を書き始めたんです。そこで、自問自答を繰り返して。『ちゃんと向き合って、これを乗り越えて変わっていきたい自分』と『全部を投げ出して、代表から去りたい自分』とがいて、二人の相反する自分の葛藤がありました」

 迷った時はいつも、両極にある自分の思考を戦わせて、前に進んできたという。この時も自分の中にある二つの考えを対決させることにした。

「自分から逃げるのが一番嫌いなので、『変わっていく』という覚悟を決めました。そこからですね、私の違うサッカー人生が始まったのは」

 最終的に、W杯では6試合すべてに出場した。佐々木監督から確かな言葉はなくとも、試合に起用し続けることをメッセージとして受け取っていた。

「ノリさん(佐々木監督)が使ってくれて、信頼してくれていると実感することもできました。それは、すごく大きかったかな。あんまり会話した記憶ないけど(笑)」

 決勝戦のアメリカ戦は2-2でPK戦に突入。永里さんは2本目を外してしまったが、仲間たちに助けられながら、ともに戦い「なでしこジャパンW杯初制覇」の偉業を成し遂げた。優勝カップを掲げる輪の中で、世界の頂点に立った喜びよりも安堵の方が大きかったという。

「勝った喜びよりも『やっと終わった。このつらさから解放される』という感情の方が大きかったですね。大会後は、『次で結果を出す』という方向に向かって切り替えました」

「納得のいくパフォーマンスが出せた」ロンドン五輪で銀メダル獲得

 2012年のロンドン五輪では、なでしこジャパンの絶対的エースとして存在感を増していた。ドイツW杯での葛藤を完全に乗り越え、攻守にわたって献身的なプレーで世界を圧倒。強靭なフィジカルを作り上げ、デュエルの強さや強烈なシュートはさらに磨かれていた。

「自分でも納得のいくパフォーマンスを出せた大会でした。W杯では膝の状態があまり良くなくて、思うようなプレーができないもどかしさもありました。そこから、トレーニングの仕方を変えて、体も絞ったら、良い方向に向かっていきました。プレーも『自分が点を取るんじゃなくて、周りに合わせるスタイル』に変えていったことで、結果的には『自分が点を取れるスタイル』になっていたんです」

 自分を高めることと周囲に合わせることを両立することで、確かな手ごたえを感じていた。その時に手にした、ロンドン五輪の銀メダルは今も手元に置いている。時には、試合を振り返ることもあるという。

「決勝のアメリカとの試合が、一番“なでしこらしい”試合をしていたんじゃないかなと思います。映像を4年に1回くらいのペースで見直しているんですよ。それで、『うまいな、この人たち』って。自分のプレーは『下手くそだな』って思うんですけど(笑)」

 自分の成長を誰よりも知っているからこそ、自分に厳しい。現役を引退した今も変わらない、永里さんらしい言葉だった。(第2回に続く)

(砂坂美紀 / Miki Sunasaka)



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