「お前はライオンじゃない」 日本代表初招集も不出場…トルシエの言葉に廣山望が見出した次なる一歩

廣山望氏が日本代表への想いと、初招集時のトルシエ監督とのやり取りを明かした【写真:近藤俊哉】
廣山望氏が日本代表への想いと、初招集時のトルシエ監督とのやり取りを明かした【写真:近藤俊哉】

連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」:廣山望(U-17日本代表監督)第4回

 日本サッカーは1990年代にJリーグ創設、ワールドカップ(W杯)初出場と歴史的な転換点を迎え、飛躍的な進化の道を歩んできた。その戦いのなかでは数多くの日の丸戦士が躍動。一時代を築いた彼らは今、各地で若き才能へ“青のバトン”を繋いでいる。指導者として、育成年代に携わる一員として、歴代の日本代表選手たちが次代へ託すそれぞれの想いとは――。

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 FOOTBALL ZONEのインタビュー連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」。2002年日韓W杯の1年前、廣山望はセロ・ポルテーニョでの実績を引っ提げてA代表に初招集される。本大会メンバー入りに向けて待望論も浮上するなか、帰国した廣山に出番は訪れなかった。自分に何が足りなかったのか――。その答えを求めてトルシエとも対面。かけられた言葉を胸に秘め、次のステージへと向かっていった。(取材・文=二宮寿朗/全5回の4回目)

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 パラグアイから約半年ぶりに帰国した廣山望には、大きな注目が集まっていた。

 日本人選手初のコパ・リベルタドーレス出場、セロ・ポルテーニョの国内前期リーグ制覇など実績を積み上げ、初めてA代表に選出された。指揮官フィリップ・トルシエの下では一時期、シドニーオリンピック代表のメンバーに呼ばれていたが、いつしか関心の外に置かれるようになった。

 日韓W杯まであと1年。2001年夏、東京、札幌、大分を舞台とするキリンカップにはパラグアイ代表も参加し、ビルヒリオ・フェレイラらセロ・ポルテーニョのチームメイトも数名来日した。

 7月1日、廣山とつながりを持つパラグアイとの一戦は、札幌ドームに集まった誰もが廣山のA代表デビューを期待していた。しかしベンチを温めたままで試合は日本リードのままで推移していき、廣山の出番は訪れなかった。大分に場所を移した中2日でのユーゴスラビア戦でも、一向にトルシエからお呼びがかからない。業を煮やしたのは、スタンドのほうだった。1-0でリードしたまま終盤を迎えると、出場を要求するように“廣山コール”が起こったのだ。

 彼の脳裏にもその光景は焼き付いていた。

「スタンドからの応援は、嬉しかったですね。有難い経験だったなと今振り返ってみても思います。日本からパラグアイに渡って、試合に出て、そのことを報道してくれていたので自分を呼びやすい状況になっていたとは感じるので、ファン、サポーター、メディア、関係者と周りのすべての方に感謝の気持ちでいっぱいでした。あのキリンカップに出場できなかったのは残念でしたけど、トータルで言えば“どうして出してくれないんだ”という気持ちまではなかった。(後期リーグに入る)セロ・ポルテーニョとの契約をどうするかも決まっていなくて、残るなら残るで、次の移籍につながる活躍をしなきゃいけない。所属クラブで活躍していけば、また(A代表に)呼んでもらえる可能性はあるとも思っていました」

キリンカップ後の欧州遠征でA代表デビュー

 パラグアイから呼び戻されながら試合に使われなかった事実に対して、引きずることはまったくなかった。ただ、自分に何が足りなかったかを、トルシエに直接聞いておきたかった。

「覚えているのは確か『ライオンじゃない』だったかな。そんな比喩的な言い方をされて、終わった気がします。納得しちゃいけないのかもしれないけど、使ってもらうだけのものを持っていなかったというふうに整理しました。ライオンじゃないと言うなら、次はそういったものを出すしかないなって、それくらいだったと思いますよ」

 ライオンじゃない――。

 南米でプレーしているなら獲物に噛みつくようにもっと激しくプレーしろ、もっと自分を主張しろ、とでも言いたいのだろうか。しかし少なくとも南米のサッカーに身を置くことで、指摘されなくとも変わりつつあることは何よりも自分自身が分かっていた。研いでいる牙が、トルシエの目にまだ映っていないだけだ。

 セロ・ポルテーニョへのレンタル延長が決まると、南米南部地域によるコパ・メルコスールにも出場。フアン・ロマン・リケルメや高原直泰が所属するアルゼンチンのボカ・ジュニアーズとも対戦している。一つひとつ経験値を積み上げていくなかで、再びA代表の欧州遠征に招集される。トルシエにとって気になる存在であったことは言うまでもない。

 10月4日、ランスでのセネガル代表との国際親善試合で、後半途中からついに代表デビューを果たす。短い出場時間のなか、右サイドからクロスを送るなど見せ場をつくった。年代別の代表とA代表の重みはまったく違っていた。国を背負い、国を代表して戦うという喜びと誇りが胸を熱くした。

 廣山は続くナイジェリア代表戦でも後半から出場する。ただわずかな時間でチームの戦術を理解し、周囲との連係を図っていく難しさにも直面する。やるだけのことはやった。後は監督が評価するだけのことだ。わずかな時間だったとはいえ、充実した代表活動を終えた廣山はパラグアイに戻り、後期リーグも制して完全優勝を果たした。

 ステップアップする好機であった。

 2002年2月にはブラジルの名門フラメンゴへの移籍が日本でも報じられる。しかしながらこの移籍は実現せず、関心を示したほかのブラジルのビッグクラブとも進展しなかった。ブラジルのスポルチ・レシフェと合意したものの、保有権を主張するジェフユナイテッド市原が移籍金を要求。国際移籍証明書(ITC)が発行されない異例の事態が続き、試合に出場できない廣山はレシフェのグラウンドで練習するしかなかった。

ブラジルのレシフェで感じた日韓W杯の熱気

 日韓W杯に向けて盛り上がりが高まるなか、廣山はプレーする場がなかったことで蚊帳の外に置かれてしまう。

 W杯が開幕しても、廣山はレシフェでトレーニングを続けていた。

「次にプレーする環境をどうするかにフォーカスしていたので、“ワールドカップに出る可能性があったのに”とか考えもしなかったですよ。それよりもテレビで流れるブラジル代表のサッカーは、メチャメチャ面白いなと思って観ていましたね。そもそもブラジルという国自体が凄い。ワールドカップと同じくらい、地元チームの情報もあふれているし、本当にみんなサッカーが大好きなんだなと思いましたね。だからブラジルからはいろんな選手が出てくるんだって、妙な納得感を持ちました。ずっとワールドカップに出続けて、日韓大会でも優勝して、ロナウドたちスーパースターが生まれて。多くのブラジル人選手がパッとJリーグにやってきてパッと活躍できる、その背景を垣間見たような気がしました。レシフェではプレーできなかったけど、苦しい期間ではあっても得るものが多かったかなと感じます」

 パラグアイでの“ホップ”を、ブラジルでの“ステップ”につなげられなかった。それでも海を渡るきっかけだった「埋まらない差」の一つの答えを探り当てた気がしていた。サッカー王国の懐に飛び込み、サッカーの偉大さを噛みしめることができた。プレーそのものはできなかったとはいえ、この「苦しい期間」がその後のサッカー人生の肥やしとなっていくことになる。

 計画を立てながら目的に向かうタイプではなく、感性を大事にして動くのが廣山の流儀。次なる旅は、欧州の地だった。

(文中敬称略/第5回に続く)

■廣山 望 / Nozomi Hiroyama

 1977年5月6日生まれ、千葉県出身。習志野高校から96年にジェフユナイテッド市原(現・千葉)に加入し、1年目から主力として活躍。2001年にパラグアイのセロ・ポルテーニョへ移籍すると、日本人として初めてコパ・リベルタドーレスに出場した。その後はブラジルを経て欧州へ渡り、ブラガではポルトガル1部で、モンペリエではフランス1部でプレーした初の日本人選手に。キャリア最終年には米USLリッチモンド・キッカーズに所属した。現役引退後は1年間、スペインに指導者留学。帰国後は育成年代の指導に携わり、現在はU-17日本代表監督を務め、チームを11月のU-17W杯出場に導いている。

(二宮寿朗 / Toshio Ninomiya)



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二宮寿朗

にのみや・としお/1972年生まれ、愛媛県出身。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。2006年に退社後、「Number」編集部を経て独立した。サッカーをはじめ格闘技やボクシング、ラグビーなどを追い、インタビューでは取材対象者と信頼関係を築きながら内面に鋭く迫る。著書に『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『岡田武史というリーダー』(ベスト新書)、『中村俊輔 サッカー覚書』(文藝春秋、共著)などがある。

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