“南米最高峰”で得た充実感「理屈なんかない」 元日本代表が標高2000mの敵地で見た「死ぬ気のプレー」

日本人として初めてコパ・リベルタドーレス本戦に出場した廣山望氏【写真:近藤俊哉】
日本人として初めてコパ・リベルタドーレス本戦に出場した廣山望氏【写真:近藤俊哉】

連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」:廣山望(U-17日本代表監督)第3回

 日本サッカーは1990年代にJリーグ創設、ワールドカップ(W杯)初出場と歴史的な転換点を迎え、飛躍的な進化の道を歩んできた。その戦いのなかでは数多くの日の丸戦士が躍動。一時代を築いた彼らは今、各地で若き才能へ“青のバトン”を繋いでいる。指導者として、育成年代に携わる一員として、歴代の日本代表選手たちが次代へ託すそれぞれの想いとは――。

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 FOOTBALL ZONEのインタビュー連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」。2001年にパラグアイへ渡った廣山望は、日本人として初めて南米クラブ王者を決めるコパ・リベルタドーレスに出場する。結果だけで判断される厳しい世界。その戦いのなかで南米選手たちの強靭なメンタリティに触れたことが、その後の現役キャリアや指導者としての今につながっている。(取材・文=二宮寿朗/全5回の3回目)

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 日本とパラグアイの違いを、廣山望は「真逆」と表現する。

 2001年、ジェフユナイテッド市原(現・千葉)からセロ・ポルテーニョにレンタル移籍を果たした彼は、現地の生活に溶け込み、出場機会を増やして信頼を勝ち取っていく。

「時差も真逆なら、季節も真逆。考え方だって全然違います。僕はそれまで理詰めで物事を考えるタイプだったのですが、それだとまったく通用しない。すべてが真逆だったからこそ、割り切れた部分はあったのかもしれない。

 唯一、サッカーの力だけで評価される世界というのは、日本でもそうだったけど、もっと純粋に自分だけに向き合えた。振り返ってみると、本当に一番いいタイミングにパラグアイに行くことができて良かったのかなと思いますね」

 日本の廣山とパラグアイの廣山も真逆だった。

 味方を活かすから、ベクトルを己に向けて自分を活かす、へ。身体を激しくぶつけるフィジカル勝負にも真っ向から臨み、目の前の1対1に勝ち、得点に結びつけて勝利を掴むピッチ上での結果にガムシャラにこだわった。

弱肉強食の世界で呼び覚ました新たな感覚

 いくつかあったオファーのなかからプレー先をセロ・ポルテーニョに決めた大きな理由に、コパ・リベルタドーレスの出場があった。CONMEBOL(南米サッカー連盟)が主催する南米クラブ王者を決める同大会の本戦に出場した日本人選手は、まだ誰もいなかった。グループリーグではブラジルのパルメイラスを筆頭に、チリ、ペルーのクラブと同組に入った。国内リーグとはまた違った盛り上がりがあり、熱くなったスタンドから果物が投げ込まれて試合が中断するのも見慣れた光景だった。

「自分が求めていたものというか、やっぱりサッカーってこうだよなって。いいプレーをしたらダイレクトに歓声が伝わってくるし、アウェーであればブーイングがもの凄い。味方の選手も、相手の選手も、スタンドも含めて勝敗に懸ける雰囲気が一段と引き上がる。日本とは明らかに違う熱量で、結果によって得るものもダイレクトで分かりやすい。活躍したら新聞の一面で扱われるし、ニュースにも流れて騒がれる。3点取った選手がいたら、次の週には次のチームに引き抜かれるとか、そういう世界。そこに理屈なんかなくて、結果だけで判断される。面白いなと思ったし、自分だって(結果を)純粋に追いかけようとするから充実感がありました」

 欧州のクラブや南米のビッグクラブの目に留まれば、すぐに引き抜かれていく弱肉強食の世界。理詰めよりも感性に身を任せたパラグアイの日々は、どこか心地良かった。新たな自分を呼び覚ましていくような感覚を持つことができた。

 試合漬けであってもストレスはない。チームメイトともずっと一緒にいたという。

「ミッドウィークに国外のチームとの対戦が入って、今の欧州並みのスケジュールで試合数が多かった。それでも南米の選手たちは、ちょっと時間ができるとパーティーとか夜遊びに行ってしまうので、大事な試合になると3日前くらいからスタジアム内の宿舎で寝泊まりしないといけない。みんなでご飯を食べて練習して、またご飯を食べてお茶を飲んでというその繰り返し。いろんな人が来ちゃうから、隔離して試合に集中させるんですよね。田舎のリゾート施設に閉じ込められて、1時間かけてスタジアムに行ったこともありましたね」

 スタジアムの門番の少年との“スペイン語レッスン”効果もあってか、わずか数か月で語学もずいぶんと上達した。ずっと一緒にいるから選手たちとのコミュニケーションも深まり、インタビューにもスペイン語で応じている。

 グループリーグをパルメイラスに次ぐ2位で突破したセロ・ポルテーニョは2001年5月、ラウンド16でメキシコの強豪クルス・アスルとホーム&アウェーで対戦する。初戦のホームゲームを2-1で制し、廣山は後半途中から出場している。

交代を拒否したフェレイラの姿に見たもの

 問題はアウェーの2戦目であった。クルス・アスルが拠点に置く首都メキシコシティは標高2000メートル以上のところにあり、チームはわざわざキャンプを張って高地順化に取り組んでから乗り込んでいる。

 だがチームメイトの動きは鈍く、前半だけで2失点。巻き返しを図るべく、ベンチスタートだった廣山は前半終盤からピッチに入った。しかし1人退場してピンチが続き、結局は1-3で敗れてしまいベスト8入りを逃がしてしまう。

「標高差があると、慣れていないチームはどうしても不利になるということをまざまざと痛感させられました。僕自身もプレーしていて苦しかったですよ。慣れていないということもあるんですけど、自分に足りないものがありました」

 身体が重かろうが、セロ・ポルテーニョの選手たちは2戦合計で同点になればアウェーゴールルールで上回るため、最後までファイティングポーズを取り続けた。

 今も廣山の心に残っているエピソードがある。

 試合終盤にベンチは選手交代に動いたが、ピッチにいる攻撃の要、パラグアイ代表ビルヒリオ・フェレイラが大きなアクションで自分の交代を拒否したという。結局そのフェレイラから交代要員が廣山に代わったのだ。

「チームの中心でもあった彼が『(交代するのは)俺じゃない、俺じゃない、俺はまだやれるんだ』と。でも、彼からすれば、この試合で勝つなら自分が代わっちゃ絶対にダメだって本気で思っていたんでしょうね。結局、アウトじゃなかった僕がアウトになった。彼は死ぬ気でプレーしていたし、言うのは簡単だけど、根性が違う。見習わなければならないものが間違いなくありました。

 話は逸れますけど、前回のカタールワールドカップで優勝したアルゼンチンが、まさにそういう集団だったじゃないですか。プレーのクオリティはもちろん大事です。だけど苦しい戦いを最後、勝ちに持ってくるにはそういったものが必要になる。身を持って知ることができたのは、指導者になってから活きている部分だとは思います」

 交代させられた自分は、死ぬ気と言えるまでにプレーできていたのか。

 勝てば多くのものを手にすることができる一方、勝てなければ何も残らない。ならば勝つ以外に求めるものはなく、そのために死ぬ気で追いかけるのが当たり前のギリギリの世界。そこに触れたことで自分がもっと変われると思えた。

 パラグアイでの奮闘ぶりは日本にも伝わっていた。

 日韓ワールドカップまでちょうど1年前のタイミングで開催される、2001年キリンカップの日本代表メンバーに初選出された。

(文中敬称略/第4回に続く)

■廣山 望 / Nozomi Hiroyama

 1977年5月6日生まれ、千葉県出身。習志野高校から96年にジェフユナイテッド市原(現・千葉)に加入し、1年目から主力として活躍。2001年にパラグアイのセロ・ポルテーニョへ移籍すると、日本人として初めてコパ・リベルタドーレスに出場した。その後はブラジルを経て欧州へ渡り、ブラガではポルトガル1部で、モンペリエではフランス1部でプレーした初の日本人選手に。キャリア最終年には米USLリッチモンド・キッカーズに所属した。現役引退後は1年間、スペインに指導者留学。帰国後は育成年代の指導に携わり、現在はU-17日本代表監督を務め、チームを11月のU-17W杯出場に導いている。

(二宮寿朗 / Toshio Ninomiya)



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二宮寿朗

にのみや・としお/1972年生まれ、愛媛県出身。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。2006年に退社後、「Number」編集部を経て独立した。サッカーをはじめ格闘技やボクシング、ラグビーなどを追い、インタビューでは取材対象者と信頼関係を築きながら内面に鋭く迫る。著書に『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『岡田武史というリーダー』(ベスト新書)、『中村俊輔 サッカー覚書』(文藝春秋、共著)などがある。

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