「価値観を超えてくる」J助っ人に衝撃 導かれた海外移籍…決意させた光景「日本にいてはいけない」

U-17日本代表の廣山望監督が現役時代に海外挑戦を決意した背景を語った【写真:近藤俊哉】
U-17日本代表の廣山望監督が現役時代に海外挑戦を決意した背景を語った【写真:近藤俊哉】

連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」:廣山望(U-17日本代表監督)第2回

 日本サッカーは1990年代にJリーグ創設、ワールドカップ(W杯)初出場と歴史的な転換点を迎え、飛躍的な進化の道を歩んできた。その戦いのなかでは数多くの日の丸戦士が躍動。一時代を築いた彼らは今、各地で若き才能へ“青のバトン”を繋いでいる。指導者として、育成年代に携わる一員として、歴代の日本代表選手たちが次代へ託すそれぞれの想いとは――。

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 FOOTBALL ZONEのインタビュー連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」。高卒でJリーガーとなり、ワールドユース(現・U-20W杯)にも出場するなど、廣山望は順調にプロキャリアを重ねていた。だが“世界”を経験し、Jリーグで外国籍選手たちと過ごす時間が増えるたびに、「埋まらない差」を意識するようになる。国内でのステップアップを描いていた男は、自らの直感に導かれるように海外移籍の扉を開いた。(取材・文=二宮寿朗/全5回の2回目)

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 実に刺激的なフレーズであった。

 世界基準――。U-20日本代表を指揮する山本昌邦から口酸っぱく言われると、最初はさほど気に留めなかった廣山望も次第に意識するようになったという。ジェフユナイテッド市原(現・千葉)で2年目を迎えた1997年シーズン、マレーシアでのワールドユースに臨むメンバーに選出され、世界との戦いに挑むことになった。

「昌邦さんは前回大会(1995年)を直に見て、世界と日本を比べたらまだまだダメだと思って帰ってきた、と。シンキングスピード、パススピード、フィジカルスピードを具体的に何%ずつ上げてほしいというのは、チームの立ち上げ時から事あるごとに言っていました。世界との差についてショックを与えてくれて、意識を引き上げるきっかけにもなりました」

 宮本恒靖キャプテンが束ねるU-20日本代表は中村俊輔、柳沢敦、戸田和幸、明神智和ら後にA代表で活躍する選手たちが揃い、そのなかに背番号8をつけた廣山がいた。

 スペイン代表とのグループステージ初戦を1-2で落としながらも、コスタリカ代表との第2戦は6-2と快勝。そしてパラグアイ代表との最終戦、大会初先発の廣山がヘディングでゴールを挙げるなど打ち合いとなったゲームは3-3のドロー決着となり、2位で決勝トーナメントに進出する。オーストラリア代表にも勝利してベスト8に進出したものの、ガーナ代表に延長Vゴールで敗れて涙を呑んだ。とはいえパラグアイ戦以降、スタメンで起用された廣山の評価を上げる大会にもなった。

「チームにはそれぞれJリーグのクラブでレギュラーになっている選手も多くて、みんな力があってバラエティに富んでいましたよね。みんなで競い合いながら、世界相手にもやれる手応えは残ったし、自分の力が通用するなとも感じることができた。Jリーグという括りのなかで、もっと上を目指したいなと純粋に思うことができました。かなり自信になりましたよ」

Jリーグの外国籍選手を間近で見て抱いた確信

 世界基準を意識し、世界相手にも通用すると感触を得たことで、廣山の向上心にさらに火がつく。ただ当時は、W杯にも出場していないサッカー後進国の日本人選手が海外移籍に踏み切れる時代背景になく、廣山の頭に「海外」の二文字はなかった。名古屋グランパスのドラガン・ストイコビッチ、鹿島アントラーズのジョルジーニョ、ジュビロ磐田のドゥンガら世界の名だたるプレーヤーがいるこのJリーグで飛躍していくことが、何よりの目標であった。

「ずっとサッカーをやってきて、何もなかったところから1993年にJリーグという夢みたいな舞台が開幕したわけです。世界の代表選手がいて、日本代表選手がいて、ここで活躍できたらワールドユースがあるぞ、シドニーオリンピックがあるぞ、と。だからジェフに貢献して、活躍することで目いっぱい。海外に行きたいなんて考えたこともなかったですよ。素晴らしい日々を送れていたので。Jリーグは外国籍選手がどのチームも強烈で、プレーのクオリティ、メンタリティが全然違う。もちろんジェフもそうで、埋まらない差に直面しつつ、どうやったら埋まるのかなとずっと考えていました」

 ジェフにもチェコスロバキア代表イワン・ハシェック、ニュージーランド代表ウィントン・ルーファー、ユーゴスラビア代表ネナド・マスロバルら個性的な外国籍選手が揃っていた。レッドスターでも活躍したマスロバルは、試合前の軽食でチームの約束事であったパスタやおにぎりといった炭水化物を摂るのではなく、ガッツリとステーキを平らげていたという。一般的な常識を遂行するのではなく、それぞれの常識を大切にして結果を出していたことが衝撃だった。

「自分の価値観を超えてくるんですよね。マスロバルにしてもそうですけど、結局試合で出て活躍しているから、断然説得力がある。人としての強さや、生きてきた背景がそうさせているのか関心を持つようになりました。そして、そこが自分に足りないところなんじゃないかとも思うようになっていきました」

 入団から5年目の2000年シーズンは怪我によってピッチを離れ、自分と向き合って考える時間が長くなった。Jリーグで活躍する外国籍選手との埋まらない差に、彼らの背景が関係しているはずだと確信を持つと、「今こそ海外でプレーすべき」とふと決意した。

「フランスワールドカップに出場した(中西)永輔さんや日本代表選手もいて、ジェフの環境は本当に素晴らしかった。ただ外国籍選手の強烈なパーソナリティに触れたことが、海外に目を向ける欠かせない要素になったのは間違いありません。海外に行くって吹っ切ることができました。もうこれ以上、日本にいちゃいけないくらいに思っていたくらいです」

直感に従って決めたパラグアイへの移籍

 海外移籍をずっと目指してきたわけでもなければ、世界最高峰と称されたセリエAでの中田英寿の活躍に触発されたわけでも、誰かに勧められたわけでもない。「埋まらない差」の答えがきっと海外にあると信じ、その直感と己の感性に従ったに過ぎない。

「それまでのキャリアもそうでしたが、僕の場合、何か道筋を立てて、プランを練って、そこに向かって頑張っていくということはできない。Jリーグができて、時代にうまく拾ってもらってプロにもなれたという感覚。だから自分に“余力”があったんですよね。海外に移籍するって、その頃はまあまあパワーがいるとは思うんです。でも自分のなかでそんなにパワーを使わないで、流れに身を任せてポンって行った感じなんです」

 探求心が第一義の海外挑戦なのだから、極端に言えばサッカーが盛んな国のリーグであればどこでも良かった。

 ジェフからのレンタル移籍先は、パラグアイの首都アスンシオンにある名門クラブ、セロ・ポルテーニョに決まった。欧州よりも南米をチョイスし、2000年にジェフ時代の先輩、武田修宏が数か月プレーしたといっても、日本にとってパラグアイは馴染みが薄かった。

 セロのことも知らなかった。千葉大学を中退することになり、勉学に対する意欲は元々高いとあって、パラグアイ行きが決まってからスペイン語の習得に入った。通訳は「必要ありません」と断った。

 不安は一切ない。寺山修司とジミヘンをこよなく愛する男は、ワクワク感に満ちあふれていた。

(文中敬称略/第3回に続く)

■廣山 望 / Nozomi Hiroyama

 1977年5月6日生まれ、千葉県出身。習志野高校から96年にジェフユナイテッド市原(現・千葉)に加入し、1年目から主力として活躍。2001年にパラグアイのセロ・ポルテーニョへ移籍すると、日本人として初めてコパ・リベルタドーレスに出場した。その後はブラジルを経て欧州へ渡り、ブラガではポルトガル1部で、モンペリエではフランス1部でプレーした初の日本人選手に。キャリア最終年には米USLリッチモンド・キッカーズに所属した。現役引退後は1年間、スペインに指導者留学。帰国後は育成年代の指導に携わり、現在はU-17日本代表監督を務め、チームを11月のU-17W杯出場に導いている。

(二宮寿朗 / Toshio Ninomiya)



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二宮寿朗

にのみや・としお/1972年生まれ、愛媛県出身。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。2006年に退社後、「Number」編集部を経て独立した。サッカーをはじめ格闘技やボクシング、ラグビーなどを追い、インタビューでは取材対象者と信頼関係を築きながら内面に鋭く迫る。著書に『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『岡田武史というリーダー』(ベスト新書)、『中村俊輔 サッカー覚書』(文藝春秋、共著)などがある。

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