初の“国立大Jリーガー”→南米最高峰へ CM出演、5か国経験の異例キャリア…「常識」を覆した開拓者の原点

連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」:廣山望(U-17日本代表監督)第1回
日本サッカーは1990年代にJリーグ創設、ワールドカップ(W杯)初出場と歴史的な転換点を迎え、飛躍的な進化の道を歩んできた。その戦いのなかでは数多くの日の丸戦士が躍動。一時代を築いた彼らは今、各地で若き才能へ“青のバトン”を繋いでいる。指導者として、育成年代に携わる一員として、歴代の日本代表選手たちが次代へ託すそれぞれの想いとは――。
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FOOTBALL ZONEのインタビュー連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」。今回はU-17日本代表監督として、11月に開催されるU-17W杯の舞台にチームを導いた廣山望の半生と指導哲学に迫る。現役「国立大Jリーガー」として始まったプロ人生は、パイオニアとしての気概に溢れていた。そのハイライトと言えるのは、2001年に渡った南米パラグアイでの日々。刺激に満ちた当時の経験は、育成年代の指導者になった今に生きている。(取材・文=二宮寿朗/全5回の1回目)
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廣山望は先駆者であり、開拓者である。
初の国立大所属Jリーガー、日本人初のコパ・リベルタドーレス本戦出場、日本人初のポルトガル1部プレーヤー、フランス1部プレーヤー。48歳となった彼は今なおフットボールに変わらぬ情熱を注ぎ、U-17日本代表の指揮官となって11月にカタールで開催されるU-17W杯出場も決めた。
今年2月、廣山は代表チームを率いてパラグアイの首都アスンシオンにいた。2022年12月にもU-16日本代表コーチとしてパラグアイ遠征に帯同しており、20年以上前にセロ・ポルテーニョの一員として戦った思い入れのあるこの地とは、何かと縁がある。
「パラグアイはCONMEBOL(南米サッカー連盟)の本部があって、アスンシオンから離れたところにスタジアム、練習場、宿泊がセットになった男女のA代表がキャンプで使用する素晴らしい施設があるんです。パラグアイサッカー協会の厚意によって2年前に続いて今回も施設を使わせてもらい、そこに行かないと得られない経験ができる。片道50時間かかる移動自体もそうです。選手たちもこれを1度経験しておくと、ほかに遠征に行く際には楽だと感じられるはずですから」
遠征初戦の相手はU-18セロ・ポルテーニョ。古巣のユースチームには元チームメイトがコーチングスタッフにいた。旧交を温めていくなかで、思いがけない再会もあった。廣山がプレーしていた時代、ホームスタジアムの門番をやっていた少年が大人になってクラブでまだ働いていたのだ。
「セロはスタジアムの中に宿舎があって、試合でそこに泊まることも多かったから交流があったんです。僕は日本から来てスペイン語を上手く話せないのに、その門番の少年がいつもお茶を持ってきてメッチャ話しかけてくれて、すごく仲良くなった。日本人が珍しいというのもあったとは思うんですけど、僕が辞書を持っていくと『この単語だよ』と教えてくれたりもしました。おかげで言葉のハードルがぐっと下がった。あの時の少年がいい大人になっていたけど、面影はありましたね。『俺のこと分かる?』と聞いたら『もちろん、分かるよ』と。また会えるなんて思っていなかったから、嬉しかったですね」
代表チームの役割は「気づきの場」を与えること
セロに1-0で勝利し、続くU-17パラグアイ代表との一戦では前半にミスから2失点を喫しながらも、結果的には逆転勝利を収めている。そして2日後、同代表との再戦でも3-0と快勝した。
代表チームは1年に集まれる機会が限られており、基本的には所属クラブでどのような日常を過ごすかが成長のカギを握る。ただ、海外遠征を含めて「気づきの場」を与えることが一つの役割とも考えている。
「海外に行って強豪と戦ってみて、相手には何年後かに欧州チャンピオンズリーグに出る選手がいると感じると、“もっとやらなきゃいけない”っていうきっかけを与えることにもなります。技術、フィジカル、メンタルが整っていけば日本から18、19歳で欧州に出ていく時代で、そこで揉まれて成長することでA代表にも絡んでいけるチャンスが出てくる。(U-17世代から)そこを目指して本気になって自分で走り出す選手が出てくれば、自然と増えていく。たとえばJリーグのクラブでも、トップチームの監督の目に留まったら練習に呼ばれる環境があるわけです。まだ気づけていない選手がいるので、どう気づかせていけるか。自分の隣に目の色を変えて取り組んでいる選手がいたら、僕らが声かけの工夫や接し方の工夫をするよりよっぽど説得力がある。その割合が増えていけばいくほど、チームだって強くなる。そして将来のサムライブルー(日本代表)につながる選手を増やしていくことにもつながると思っています」
本気にならないと、自分から動かないと行きたい場所にたどり着けない――。それを廣山は教えるというよりも促している。
日本、パラグアイ、ポルトガル、フランス、アメリカと5か国でプレーし、現役引退後にはJOCの海外指導者派遣制度を利用してバルセロナに留学した経験も合わせた広い視野が、「指導者・廣山」のベースになっている。
ならば廣山はどのように己を形成し、行動してきたのか。
中学時代に父の死という悲しみを乗り越えて、サッカーにのめり込んでいく自分がいた。全国高校サッカーでベスト4まで進むなど県内屈指の強豪校と知られた習志野高校に進学。チームメイトには小学校時代から同級生の福田健二がいた。
「本当は別の高校を受験して、勉強しながらサッカーをしていくつもりでした。でも最後の最後に本田(裕一郎)先生に声をかけていただいて、両校受験して合格をもらったなか習志野でサッカーをやってみたい、と思いました」
兄の影響を受けてハマった寺山修司の本
自宅のある袖ケ浦から約2時間かけての通学。兄が大好きで自宅にたくさんあった寺山修司の本を借りて、電車での移動時間を読書に充てた。
「寺山さんの本にはハマりましたね。家にあるものを一通り読んで、終わったら別の本を買ってきました。物事に対する捉え方がとても面白くて、そののち僕が南米に出ていく瞬発力や、感性を磨いてくれました。音楽も兄の影響でジミヘン(ジミー・ヘンドリックス)を好きになって。世代的には結構上の人(の嗜好)なので、周りの同世代とはちょっと違った考え方を持っていたのかもしれません」
振り向くな、振り向くな、後ろには夢がない。
競馬好きの寺山が綴った「さらばハイセイコー」にある有名な一節。まさに廣山はどんどん前を進んでいこうとする。
1995年にはインターハイを制し、翌96年に地元のジェフユナイテッド市原(現・千葉)への入団を決めるとともに、勉学の成績も良かったために千葉大学に進学する。サッカーで一流を目指すなら専念すべきという「常識」にとらわれず、自分がやってみたいと思ったら、シンプルにその直感に従った。
廣山はプロサッカー選手と大学生の両立を図り、1年目から右サイドで主力となってジェフの顔になっていくばかりか、後に学習塾のCMにも起用されて知名度は全国区となる。
しかし、まだ世界を意識したことはなかった。ジェフで活躍し、ジェフにタイトルをもたらすことが最大のモチベーションだった。視野を国内から広げていくきっかけが、プロ2年目の1997年6月にマレーシアで開催されたU-20ワールドカップであった。
(文中敬称略/第2回に続く)
■廣山 望 / Nozomi Hiroyama
1977年5月6日生まれ、千葉県出身。習志野高校から96年にジェフユナイテッド市原(現・千葉)に加入し、1年目から主力として活躍。2001年にパラグアイのセロ・ポルテーニョへ移籍すると、日本人として初めてコパ・リベルタドーレスに出場した。その後はブラジルを経て欧州へ渡り、ブラガではポルトガル1部で、モンペリエではフランス1部でプレーした初の日本人選手に。キャリア最終年には米USLリッチモンド・キッカーズに所属した。現役引退後は1年間、スペインに指導者留学。帰国後は育成年代の指導に携わり、現在はU-17日本代表監督を務め、チームを11月のU-17W杯出場に導いている。
二宮寿朗
にのみや・としお/1972年生まれ、愛媛県出身。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。2006年に退社後、「Number」編集部を経て独立した。サッカーをはじめ格闘技やボクシング、ラグビーなどを追い、インタビューでは取材対象者と信頼関係を築きながら内面に鋭く迫る。著書に『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『岡田武史というリーダー』(ベスト新書)、『中村俊輔 サッカー覚書』(文藝春秋、共著)などがある。




















