W杯優勝当日→スーパーでレジ打ち「複雑な気持ちに」 45歳ボンバー荒川が現役を貫く理由

WEリーグの最年長選手として現役を続ける荒川恵理子【写真:砂坂美紀】
WEリーグの最年長選手として現役を続ける荒川恵理子【写真:砂坂美紀】

驚異的な身体能力は健在 チームナンバーワンの跳躍力で20代の選手にも負けない

 WEリーグ現役最年長選手、ちふれASエルフェン埼玉のFW荒川恵理子。28年に及ぶ選手生活は、壮絶なサッカー人生であった。昨季はケガで長期離脱したが、復帰戦で最年長記録を更新、豪快なヘディングシュートを放ち健在ぶりを示した。今季は、好調な荒川に「FOOTBALL ZONE」が独占インタビューした。(取材・文=砂坂 美紀/全4回の1回目)

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 荒川は8月の開幕に向けて、ボンバーヘアを揺らしながら、埼玉県飯能市にある、ちふれASエルフェン埼玉(AS埼玉)のグラウンドで練習をしていた。マッチアップしたDFを背負う強さは尋常ではない。相変わらずの身体能力の高さをみせつけている。所属チームの体力テストでも立ち幅跳びと垂直跳びは、断トツの1位を記録。20代の選手にも負けていない。45歳という数字は、彼女には関係ない。

「今シーズンは90分間出場できるように準備をしています。足の状態もいいし、万全の状態でプレーをできるように準備しています」

 昨季は、開幕前に痛めた足のケガがなかなか完治せず復帰まで時間を要した。それでも、3月のINAC神戸レオネッサ戦、4月の日テレ・東京ヴェルディベレーザ戦と重要な試合でピッチに立った。いずれの試合でもWEリーグの最年長出場記録を更新した。

「短い時間でも、試合に出るたびに“記録更新”ってなるのが申し訳なくて」と、頭を掻きながら白い歯をこぼす。

(左から)元なでしこジャパンのGK山郷のぞみさん(強化・育成部部長)、荒川、MF山本絵美さん(コーチ)【写真:砂坂美紀】
(左から)元なでしこジャパンのGK山郷のぞみさん(強化・育成部部長)、荒川、MF山本絵美さん(コーチ)【写真:砂坂美紀】

なでしこジャパンのエースに成長も、レジ打ちの仕事を18年間

 荒川がサッカー選手としてスタートを切ったのは1997年の高3時、『世界最高峰のリーグ』と称された当時のトップリーグ“L・リーグ”だった。世界中のトッププレイヤーが各チームにプロ同然で所属し、ハイレベルな戦いに身を投じるのは誇らしかった。

 だが、日本社会の不況のあおりを受けて、女子サッカー界はすぐに斜陽の時代を迎える。リーグに参加していた多くのチームが廃部の道をたどった。当時所属していたベレーザも苦境に立たされつつも、懸命に存続していた。荒川は高校卒業時に、前年度までチームスポンサーだった大手スーパーマーケットの西友でレジ打ちのアルバイトに就きながら、練習に向かう日々を過ごしていた。「サッカーだけをしていたら出会えない方々と触れ合えて楽しかった」。

 しかし、日本女子代表が1999年のアメリカW杯で翌年のシドニー五輪の出場権を逃すと、日本の女子サッカー界はますます厳しさを増していた。「次の五輪には絶対に出場する」を合言葉に、強化を続けてきた。荒川は、2000年に日本女子代表に選出されると、エースストライカーに成長していた。

 2004年4月24日のアテネ五輪アジア最終予選、国立競技場で北朝鮮と対戦。過去約10年間1度も勝利したことがない北朝鮮から、荒川が先制ゴールを奪って、3-0でアテネ五輪出場の切符をもぎ取った。スタンドに詰めかけた約3万人の観客が勝利に酔いしれた。ちなみに、このときの観客数は今も破られてはいない。

 アテネ五輪、全競技に先駆けて行われた初戦のスウェーデン戦。荒川が先制点を決めて、前年のW杯準優勝チーム相手に1-0で勝利した。準々決勝で女王アメリカに1-2と惜敗したが、これらの戦いぶりから世間の注目を集めた。

 五輪前に「オリンピックはお祭りみたいなものだから」と、ボンバーヘアにしていた荒川は、持ち前の明るいキャラクターも相まって人気者となった。テレビのバラエティ番組などに出演し、女子サッカーの知名度を押し上げる立役者に。公募で採用されたサッカー日本女子代表の愛称「なでしこジャパン」も広く知られるようになった。

 彼女たちの躍進が、日本の女子サッカーを活性化させた。荒川はなでしこジャパンの中心選手として活躍しながらも、「好きだったから」と、西友で週3回4時間のレジ打ちの仕事を2015年まで続けた。

28年の現役生活はケガの連続 足を切断する可能性もあったほどの重傷も

 小学生のときにサッカーを始めてから、人生のほとんどボールを蹴って過ごしている荒川。45歳になった今も現役を貫くとは、本人も想像していなかったという。

「自分ではこんなに長くやると思ってなかったですから。ケガも多かったので」

 振り返れば、大ケガが多いサッカー人生だった。

 17歳で下部組織から読売西友ベレーザ(当時)に昇格。21歳のときに脱臼癖のあった左肩を手術。復帰後わずか1か月で相手GKと激しく交錯して右すねの脛骨と腓骨を開放骨折。骨が肉を突き破る大ケガで、足を切断する可能性もあったほどの重傷だった。1年以上にわたる懸命なリハビリで戦列復帰し、2003年にはリーグ戦21試合出場18得点を挙げる。度重なる大ケガを負っても、重要な場面で決定機を逃さないダイナミックなプレーで日本代表に欠かせない存在になった。

 2007年の中国W杯ではグループステージ3戦すべてに出場したが、最後のドイツ戦で相手GKと交錯し、肺気胸で現地の病院に入院したこともあった。高い身体能力と得点への鋭い嗅覚、ときには身を投げ出すほどの献身的なプレースタイルが大ケガの要因となることもあった。その悔しさや痛み、気の遠くなるようなリハビリに費やす苦労は計り知れぬものがある。

2011年に7か所の疲労骨折 W杯優勝当日にレジ打ちで複雑な心境に

 2008年2月の東アジア選手権でなでしこジャパンの優勝に荒川は貢献。それまで約27年に渡って活動してきた日本女子代表が、初めて大会の頂点に立った瞬間だった。さらなる高みを求めて8月の北京五輪に臨んだ。すると、これまでの最高順位となる4位に輝いた。大会前から足の不調を感じていた荒川だったが、メダルマッチまで全6試合を戦い抜いた。

「大会前に足を痛めていて、本調子ではないまま終わったので、悔しさが残りました。28歳だったので4年後のロンドンでは32歳。当時の日本代表は30歳以上の選手があまりいなかったけど、そこを目指そうと思っていました」

 しかし、またしても荒川にケガの試練が降りかかる。ドイツW杯に向けた、2011年3月のアルガルベ杯後、右脛を疲労骨折。それも、7か所にも及んでいることがわかった。医師には手術を勧められたが、「手術をたくさんしていて、異物も体に入れたくなかったので保存で治したい」と、手術を回避した。

 代表復帰を目指していた2011年7月、ドイツW杯でなでしこジャパンは世界一になった。金色の紙吹雪を浴びながら、ワールドカップを掲げる仲間たちの笑顔を複雑な気持ちで早朝のテレビで見つめていた。優勝してとても清々しいはずが、心は曇っているスッキリしない朝だった。

 気を取り直して職場に向かい、いつものレジ台に立つと、お客様から「おめでとうございます!」とひっきりなしに声をかけられる。「ありがとうございます」と、笑顔で返したが、息がつまる感じがした。

「日本が優勝して、すごく嬉しいことではあったけど、ちょっと寂しいような悔しいような感情になりました」。今もそのときの複雑な気持ちをふと思い出すことがあるという。それでも、荒川は前を向いた。「ピッチに立ちたい」。沸き上がる気持ちが彼女を突き動かしていた。(第2回に続く)

(砂坂美紀 / Miki Sunasaka)



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