偶然ではなかったPK成功率100% 強心臓支えた思考力、“監督”阿部勇樹が説く「考えながら走る」の教え

今季から浦和ユースを率いている阿部勇樹監督【写真:近藤俊哉】
今季から浦和ユースを率いている阿部勇樹監督【写真:近藤俊哉】

連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」:阿部勇樹(浦和レッズユース監督)第5回

 日本サッカーは1990年代にJリーグ創設、ワールドカップ(W杯)初出場と歴史的な転換点を迎え、飛躍的な進化の道を歩んできた。その戦いのなかでは数多くの日の丸戦士が躍動。一時代を築いた彼らは今、各地で若き才能へ“青のバトン”を繋いでいる。指導者として、育成年代に携わる一員として、歴代の日本代表選手たちが次代へ託すそれぞれの想いとは――。

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 FOOTBALL ZONEのインタビュー連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」。浦和レッズへの帰還後、阿部勇樹はリーダーとしてチームを牽引し続け、タイトル獲得につなげてきた。浦和の象徴的な存在となった男は今、ユース監督として後進の育成にあたる。10代の若き才能に語りかける言葉の端々には、歴代の名将から受けた教えと、幾多の激闘を乗り越えてきたフットボーラーの信念が散りばめられている。(取材・文=二宮寿朗/全5回の5回目)

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 阿部勇樹はFKの名手であるとともに“PK職人”でもあった。

 J1においては21本中21本決めて100%の成功率を誇る。名シーンの一つとなっているのが2016年シーズンのチャンピオンシップ決勝、鹿島アントラーズとのアウェーでの第1戦だ。後半12分、興梠慎三が倒されて得たPKで、何とド真ん中に蹴り込んでいる。

 強心臓ぶりを物語るひとコマだが、阿部は「真ん中は一番入るという感覚だった」と言う。そしてここにもストーリーがある。彼がプロになって初めてPKを託されたジェフ時代、2002年7月のジュビロ磐田戦で真ん中に蹴って成功させているのだ。

「もしここで外していたら、以降は(PK自体)蹴らなかったかもしれないですね。その1回目を決めて、自分が蹴らなきゃいけないっていう自覚が少し芽生えた気がしています。僕にとってPKって、緊張というより楽しめているんですよね。GKとの駆け引きでどのようにだまそうか、と(笑)。蹴る方向の逆を見たり、助走に工夫を加えたりして相手も(つられて)そちら側に飛んだりするので本当にいろいろとやりました。ACLではポストに当ててしまったことがありましたけど、(外す)プレッシャーみたいなものはあまり感じていない。蹴る直前までどっちに蹴るかは決めなかったですね。ただ“なんかこれ危ないな”と思った場合のみ決めていました」

 外してしまったら……は阿部の心理に一切ない。どうやったら決められるかを模索し、相手GKと駆け引きし、後は実行に移すのみ。この一連の作業を楽しむことで、極度の集中を生み出して邪念を寄せつけない。100%の成功率は決して偶然ではなかった。

 鹿島との第1戦を制しながらも、埼玉スタジアムでの第2戦は1-2となってアウェーゴール数の差で涙を呑んだ。ミハイロ・ペトロヴィッチ体制5年目でクラブ史上最多となる勝ち点74を積み上げて、年間勝ち点1位で臨んだチャンピオンシップ。最後はほろ苦い味が残ってしまった。

「最後の最後で結果を得られなかったことに悔いは残りました。でも僕自身、年間通して一番多く勝ち点を挙げた初めてのシーズンでもあったし、ミシャのサッカーが浸透してチームとしても凄く自信になったというのはありました」

指導者として大切にしている人間教育

 この年、浦和はルヴァンカップを制している。ガンバ大阪との決勝戦はPK戦となり、阿部は1人目でしっかりと役割を果たしている。同タイトルはクラブにとって13年ぶりであり、阿部にとってはレッズに移籍して初の国内タイトルとなった。長年、Jリーグで指揮を執ってきたペトロヴィッチも初めてであり、そのことも阿部を非常に喜ばせた。

「レッズに戻ってきた一つの理由が、国内でタイトルを獲っていないこと。ホームでもアウェーでもあれだけのサポーターがいつも来てくれて、そのみんなが笑顔になる光景ってどうなんだろうっていうモチベーションがありました。2016年にルヴァンを獲った時はそれが一つ果たせたこともあって心に残っています。スタンドも一つになった時のパワーって計り知れないものがある。翌年のACL優勝もまさにそうでした」

 レッズに帰還してからの10年間、J1制覇こそ届かなかったものの、2018年、そして現役ラストイヤーとなる2021年には天皇杯を制している。紆余曲折はありながらも阿部が再びレッズの一員となって若手に自覚を促し、ピッチとスタンドをつなげてきたことが栄光につながったのだ。

 ユースのコーチを3年間務めた阿部は今シーズン、ユースの監督に就任した。ピッチ内の指導にとどまらず、礼儀、周りへの配慮、感謝の気持ちなど人間教育を重んじる。

「レッズユースからプロ、または大学含めて次のステップに進むなかで、人間性のところが成長していなかったら絶対、苦しむと思うんですよ。レッズから来たとなったらどこまでもついてくるし、送り出す側の責任があるじゃないですか。ダメなものはダメ、足りないものは足りないと伝えていくところは意識していますね」

 芯の強さは、誰もが認めるところ。粘り強く、根気強く指導する姿は、彼の実直な人間性を表してもいる。

 どういった時に指導者として喜びを感じるか?

 そう尋ねると、阿部はすぐさまこう応じた。

「ほぼほぼ毎日グラウンドに一緒にいて、今までやれていなかったことがパッとできる瞬間があるんですよね。僕も『いけたね』と言ってあげる。そこを見逃さないようにしないといけません。良かったということを伝えてあげないと選手たちも気づかないので。そうすることで繰り返してできるようになり、当たり前になっていく。

 今の選手たちは褒められて伸びることが多いと感じます。褒めすぎるのは良くないとしても、ちゃんと褒めてあげる。逆にダメな時は『足らないぞ』と指摘してあげる。そこをうまくバランスを取りながらやっていきたいなとは思います。一番、伝えているのはベースの部分。やはりサッカーは走らなければならないし、どの年代、どのリーグ、どのカテゴリーでも求められるものですから」

名将からの教えを「自分色に染めていく」

 恩師のイビチャ・オシムから教えられた「考えながら走る」は、指導者になっても大切にしていること。土台がしっかりしていないと、いくら上積みしても揺らいでしまう。その思いがあるから人間教育にも目を向けている。

 オシムだけでなく高校生でありながら信頼して起用してくれたゲルト・エンゲルス、レスター時代のスヴェン=ゴラン・エリクソン、そしてレッズでともに戦ったペトロヴィッチら多くの指導者の下で、阿部勇樹というプレーヤーは形成された。

「本当にいろんな方に指導していただいて、多くのことを教えてもらいました。そういったものは僕の中に残っているし、誰かの真似をするのではなくて、自分色に染めていくことで自分のスタイルになっていくと思うんです。その姿勢を見せていくことが、ユース、アカデミーの選手たちの見本になるかもしれない。だから僕もチャレンジなんです。選手と一緒にチャレンジしてやっていきたい」

 人に言う前に、まずもって自分でやる。それを見せていくと同時に伝えていくという思いがある。阿部勇樹はこれからも、先頭に立って走り続けていく。

(文中敬称略)

■阿部勇樹 / Yuki Abe

 1981年9月6日生まれ、千葉県出身。ジェフ市原(現・千葉)の育成組織で育ち、98年に16歳333日でJ1デビュー。2000年のトップ昇格後も活躍し、03年のイビチャ・オシム監督就任後は主将となり躍進するチームの象徴となった。07年に浦和レッズへ移籍。10年のレスター移籍を挟み通算14シーズン所属し、AFCチャンピオンズリーグ優勝2回、天皇杯優勝2回、ルヴァンカップ優勝1回などタイトル獲得に貢献した。日本代表としても活躍し、10年W杯ではベスト16進出に貢献。21年の引退後は浦和ユースのコーチとなり、今季から監督を務める。

(二宮寿朗 / Toshio Ninomiya)



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二宮寿朗

にのみや・としお/1972年生まれ、愛媛県出身。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。2006年に退社後、「Number」編集部を経て独立した。サッカーをはじめ格闘技やボクシング、ラグビーなどを追い、インタビューでは取材対象者と信頼関係を築きながら内面に鋭く迫る。著書に『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『岡田武史というリーダー』(ベスト新書)、『中村俊輔 サッカー覚書』(文藝春秋、共著)などがある。

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