プレミア断り→浦和に復帰「後悔ない」 つなぎ止めた赤の絆…右手を突き立て叫んだ”魂の呼びかけ”

浦和に帰還した阿部勇樹氏はチームリーダーとして10年間駆け抜けた【写真:近藤俊哉】
浦和に帰還した阿部勇樹氏はチームリーダーとして10年間駆け抜けた【写真:近藤俊哉】

連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」:阿部勇樹(浦和レッズユース監督)第4回

 日本サッカーは1990年代にJリーグ創設、ワールドカップ(W杯)初出場と歴史的な転換点を迎え、飛躍的な進化の道を歩んできた。その戦いのなかでは数多くの日の丸戦士が躍動。一時代を築いた彼らは今、各地で若き才能へ“青のバトン”を繋いでいる。指導者として、育成年代に携わる一員として、歴代の日本代表選手たちが次代へ託すそれぞれの想いとは――。

【PR】DAZNを半額で視聴可能な学生向け「ABEMA de DAZN 学割プラン」が新登場!

 FOOTBALL ZONEのインタビュー連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」。2010年の南アフリカW杯後、阿部勇樹は海を渡ってイングランド2部に戦いの場を移し、刺激的な日々を送っていた。年齢的にキャリアのピークを迎えていたなか、2つのオファーが届く。世界最高峰のプレミアリーグへの挑戦か、低迷する古巣・浦和レッズへの帰還か。その選択から10年間、阿部は真っ赤なユニフォームを身にまとい、濃密な30代の日々を駆け抜けた。(取材・文=二宮寿朗/全5回の4回目)

   ◇   ◇   ◇   

 阿部勇樹は、原点に立ち返ろうとしていた。

 2010年の南アフリカW杯後に渡ったチャンピオンシップ(イングランド2部)のレスターでは移籍当初こそ出番がなかった。W杯で活躍したとはいえ、サッカー後進国から来た“アラサー”のプレーヤーを見る目は冷ややかだった。しかしそれは予想できたことでもあり、むしろここからのし上がっていくんだと気持ちにスイッチが入った。

「30歳近くになって試合に出られないということを経験できたのは、何より大きかったですね。悔しいなら、じゃあ何をしなきゃいけないのか。試合に出るために、競争に勝っていくために火がついた部分はありましたよ」

 恩師イビチャ・オシムから授かった教え「24時間サッカーを考える」を強め、練習のどのシチュエーションであっても勝負にこだわった。組織よりも個に目を向ける感覚はどこか久しく、新鮮でもあった。

 監督がパウロ・ソウザから元イングランド代表監督のスヴェン=ゴラン・エリクソンに交代すると、勤勉かつタフなプレースタイルは評価され、ボランチを軸としながらもチーム事情でサイドバックをこなすなど、ポリバレントぶりを発揮していく。エリクソンはしっかり理解できるようにとゆっくりした英語で、映像を使いながら分かりやすく説明してくれたという。レスターで成功するために「エリクソンさんには本当に助けられた」と阿部は感謝する。

 試合数は多く、基本バス移動の環境も楽しめた。単身赴任は大変なことも多かったが、一つひとつが良い経験になった。

「韓国料理のお店に入って、キムチが食べたいと思ってキムチ豆腐を頼んだら、お通しに凄い量のキムチが出てきたんですよ。一人で汗流しながら、ひたすらキムチばかり食べました。隣にカップルがいて、あれは恥ずかしかったなあ(笑)」

浦和レッズのために尽くした誇りの10年間

 そんな阿部に、再び決断の時が訪れる。

 2年目となる2011-12年シーズン、冬の移籍期間においてプレミアリーグのエバートンから正式なオファーが届いた。そしてもう一つ、低迷して15位でシーズンを終えた古巣の浦和レッズ。社長とGMがイギリスまで会いに来たという。

 ステージを上げてプレミアの舞台に挑むか、それとも苦境から打開を図ろうとするレッズの助けとなるチャレンジを選ぶか。

 阿部は後者を選択する。恩師イビチャ・オシムの右腕であったミハイロ・ペトロヴィッチ監督が希望していることも理由の一つだった。

「30歳になっていましたから、今の時代と違ってサッカーをやれるのも、あと3年くらいだろうなと考えていたんです。だったら、まだしっかり動ける時に戻ってレッズのためにプレーしたい、と。まさか40歳までプレーするなんて思ってないわけですよ。振り返ってみて、プレミアに行っていたらどんな人生が待っていたかとは思いますよ。でも正直、後悔はないです」

 後悔はない――。

 そう言えるのも、12年シーズンから浦和レッズのために全力を尽くしてきた誇りの10年間があるからではなかったか。

 ペトロヴィッチからはキャプテンに指名され、勝つために、チームを一つにしていくために腐心する。試合に出られない悔しさも、レスターで経験したことで選手それぞれの思いをより理解できるようになった。キャリアを積み上げてきたことで視野はずいぶん広くなった。

「若い選手とご飯も行くなかで、ふざけて“呼び捨てにしないとメシおごらないぞ”と言ったりもしましたね」

“阿部さん”呼びを禁止にしたのも、一人のプレーヤーとして同等であり、その自覚を持ってもらいたいとの思いがあった。

 ミシャ体制3年目の2014年シーズン、8年ぶりとなるリーグ制覇に迫りながらも最終盤に失速してガンバ大阪に優勝をさらわれてしまう。勝った時は前に出ていかず、負けたら矢面に立つ。裏からチームを支えるキャプテン像が阿部の流儀でもあった。

「チームが良い時はそんなに心配する必要はありません。逆にチーム状況やスタジアムの雰囲気が良くない時には、逆に(自分が)出ていかなきゃいけないこともあると思います。だから良い時は、あんまり仕事はないんです」

“魂の呼びかけ”から3日後のゴール

 阿部らしいエピソードと言えば、サポーターに対するあの“魂の呼びかけ”だ。

 2015年3月4日、埼玉スタジアムで戦ったACLのブリスベン・ロアー戦に敗れると、公式戦3連敗となってスタジアムにブーイングが吹き荒れた。ゴール裏に挨拶に向かったキャプテンマークを巻いた阿部に対して、より厳しい言葉がぶつけられた。

 その時だった。彼はスタッフの静止を振り切ってサポーターに近寄り、右手の人差し指を突き立てて訴えかけた。

<言っていることは分かるよ! でも一つ勝たなきゃしょうがないんだよ。そのために頑張るから。次に見せるよ! 見せるから一緒に戦ってくれよ!>

 阿部は当時のことを今でもよく覚えている。

「試合が終わってグラウンドを回っている時に、サポーターの声に対して周りの選手が少し反応しそうな状況になっていて、もしそうなってしまったら(選手とサポーターの思いが)バラバラになると感じました。不甲斐ない結果が続いていれば言われるのは仕方ない。でも一生懸命にやっている選手たちの思いも伝えなきゃいけない。サポーターのなかにも拍手を送ってくれたり、厳しい言葉の後に頑張れよって言ってくれたり、言葉がバラバラというか、何かこう自分が出て話に行くことで、みんな一緒になって戦っていかなきゃいけないんだよっていうのを伝えられたらなと思って。甘っちょろいこと言うなよって、そう返されるかもしれないって覚悟はありましたよ。でも試合も続くし、今伝えないと次に進んでいけないんじゃないかっていう気がしたんです」

 レッズを愛する者同士、レッズに誇りを持つ者同士、阿部のメッセージがピッチとスタンドをつなぎ止める。ゴール裏に阿部のチャントが鳴り響いたのだ。

 阿部は有言実行の人だ。

 3日後、リーグ開幕戦となったアウェーでの湘南ベルマーレ戦に3-1で勝利すると、埼玉スタジアムに戻ってきた3月14日のモンテディオ山形戦、0-0で迎えた後半38分だった。相手がクリアしたボールに対してキャプテンマークを巻いた22番が猛然と前へ向かう。バウンドに合わせて右足を振り切ると、ゴール左上へボールを突き刺した。

 スタジアムが揺れた。真っ赤に染まったスタンドが一つになった。つなぎ止めた絆が、固くてぶっとい絆となった瞬間でもあった。

 苦しい時にこそ己が前に出ていってケリをつける。

 それはまるで赤き炎となりて。あの日の夜と同じ、阿部勇樹のアクションが人々の心を熱く揺さぶった。

(文中敬称略/第5回に続く)

■阿部勇樹 / Yuki Abe

 1981年9月6日生まれ、千葉県出身。ジェフ市原(現・千葉)の育成組織で育ち、98年に16歳333日でJ1デビュー。2000年のトップ昇格後も活躍し、03年のイビチャ・オシム監督就任後は主将となり躍進するチームの象徴となった。07年に浦和レッズへ移籍。10年のレスター移籍を挟み通算14シーズン所属し、AFCチャンピオンズリーグ優勝2回、天皇杯優勝2回、ルヴァンカップ優勝1回などタイトル獲得に貢献した。日本代表としても活躍し、10年W杯ではベスト16進出に貢献。21年の引退後は浦和ユースのコーチとなり、今季から監督を務める。

page1 page2

二宮寿朗

にのみや・としお/1972年生まれ、愛媛県出身。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。2006年に退社後、「Number」編集部を経て独立した。サッカーをはじめ格闘技やボクシング、ラグビーなどを追い、インタビューでは取材対象者と信頼関係を築きながら内面に鋭く迫る。著書に『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『岡田武史というリーダー』(ベスト新書)、『中村俊輔 サッカー覚書』(文藝春秋、共著)などがある。

今、あなたにオススメ

トレンド

ランキング