「今だから言える」W杯後の決断 飛び込んだ英国の地…28歳で「終わってしまうかも」

2010年南アフリカW杯当時の心境を明かした阿部勇樹氏【写真:近藤俊哉】
2010年南アフリカW杯当時の心境を明かした阿部勇樹氏【写真:近藤俊哉】

連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」:阿部勇樹(浦和レッズユース監督)第3回

 日本サッカーは1990年代にJリーグ創設、ワールドカップ(W杯)初出場と歴史的な転換点を迎え、飛躍的な進化の道を歩んできた。その戦いのなかでは数多くの日の丸戦士が躍動。一時代を築いた彼らは今、各地で若き才能へ“青のバトン”を繋いでいる。指導者として、育成年代に携わる一員として、歴代の日本代表選手たちが次代へ託すそれぞれの想いとは――。

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 FOOTBALL ZONEのインタビュー連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」。10代の頃から年代別代表に名を連ねてきた阿部勇樹は、数々の国際舞台を経験してきた。そのなかで多くの人々の記憶に刻まれている大会といえば、やはり2010年の南アフリカW杯だろう。大会直前に、どん底まで落ちていた下馬評を覆してのベスト16進出。その躍進の陰には、腹を括った“アンカー”阿部の姿があった。(取材・文=二宮寿朗/全5回の3回目)

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 阿部勇樹を語るにおいて絶対に外せないのが、2010年の南アフリカW杯である。

 大会前、日本代表には逆風が吹き荒れていた。4月のセルビア代表戦に0-3で敗れると、壮行試合となった5月の韓国代表戦も0-2で力負けを喫してしまう。期待が萎むなかで事前合宿地スイス・サースフェーに飛び立ち、指揮官の岡田武史はボールを支配して組み立てていくスタイルに見切りをつけ、リスクを極力排除する「堅守速攻」に舵を切る。

 オーストリア・グラーツで行われたイングランド代表との強化試合。採用するアンカーのポジションには阿部が入った。岡田ジャパンではサブに回ることが多かったのだが、本大会直前になって大きなチャンスが舞い込んできたのである。

「28歳という年齢から言ってもたぶん、最初で最後のワールドカップになる。悔いなくやり切って終わりたいと思っていた時に、あのイングランド戦がありました。岡田さんからも映像を見ながらこういうふうにやってほしいと伝えられて、それなら自分の強みを生かせるなと思って頭の中をある程度クリアにして試合に臨むことができた。もしこのチャンスを生かせなかったら、この大会に出ることはないと思いました。生かすも殺すも自分次第だ、と」

 阿部の何よりのストロングポイントは、勝負どころで腹を括ることができる点だ。ユース時代、1999年シーズンの開幕戦で「ビスマルクを抑えろ」とミッションを与えられて怖気づくことなく食らいついたように、一度覚悟を決めたらトコトンまでやり切れる凄味がある。まさにその真骨頂が、このイングランド戦でもあらわれる。

 最終ラインの前に立ちはだかってウェイン・ルーニーに良い形でボールを受けさせず、広いエリアをカバーするとともに、回収すれば攻撃のスイッチを押す役割を担う。この試合、グラーツの自宅で療養生活を送っていた前監督のオシムも観戦に訪れていた。阿部の活躍に目を細めていた。

南アフリカW杯ではアンカーとして奮闘【写真:Maurizio Borsari/アフロ】
南アフリカW杯ではアンカーとして奮闘【写真:Maurizio Borsari/アフロ】

南アフリカW杯の活躍につながった苦い記憶

 阿部には、ちょっとした苦い思い出があった。

 オシム体制の下で臨んだ2007年のアジアカップ。東南アジア4か国共催となったこの大会、阿部は中澤佑二とコンビを組んでセンターバックで全試合に先発しながらも、チームは準決勝でサウジアラビア代表に敗れ、阿部は失点にも絡んだ。責任を感じた。

「大会を通して持てるものをあまり出せなかった印象です。アジアカップのメンバーに選んでもらって、かつ同じポジションにはほかの選手もいるなかで起用してもらっているのに、チームの助けにならなかった。オシムさんも(チームに対して)試合後『覚悟が足らなかった』と言っていました。

 今、振り返って思うのはここ抜かれたら危ないとか、どこかネガティブな気持ちを抱えていたことがそういうことを招いてしまったのかなって」

 覚悟を決めきれていなかった。当時はそのことを明確に感じたわけではなかったが、薄々気づいていた。だからこそ、急な出番、急なミッションを授けられた大事なイングランド戦で腹を括れたのかもしれない。オシムの眼前で、自分へのリベンジを果たした一戦でもあった。試合に負けながらも阿部に対する評価は上がり、本大会でもアンカーの任務を担うことになる。

 自国開催以外で初めてベスト16に進んだ本大会での印象に残る試合は?

 そう尋ねると、阿部は迷うことなくカメルーン代表とのグループステージ初戦を挙げた。前半39分、右サイドで相手をかわした松井大輔がクロスを送り、1トップに入る本田圭佑が先制点を奪う。後半に入ってギアを上げてくるカメルーンに対し、阿部は体を張って食い止め、こぼれ球を拾い続けた。エースのサミュエル・エトーに対しても腰を引かず、決定的な仕事をさせない。セルビア戦から4連敗で臨んだチームへの期待感が薄らいでいた分、その反響も凄まじかった。

「ミーティングでも相手はスロースターターであまり来ない傾向にあるから、こっちはしっかり入っていこうというなかで点を獲れたのが良かった。後半、カメルーンのエンジンがかかってくることも想定していたとおりでした。あの勝利があったからこそ、その後の戦いにもつながっていきました。

 でも大会が終わって感じたのは、僕がもっと守れていれば3ボランチのハセ(長谷部誠)とヤットさん(遠藤保仁)が攻撃に行けただろうし、サイドハーフの大輔、(大久保)嘉人がもっと前でやれたんじゃないかって。それでもあの時、自分が持てるものはしっかり出せた大会でもありました」

世界のレベルを知り芽生えた思い

 デンマーク代表との第3戦にも3-1で勝利してグループステージを突破。パラグアイ代表とのラウンド16はスコアレスでPK戦までもつれた末に敗れた。岡田ジャパンの躍進はアンカーで防波堤となり、すぐさま攻撃につなげた阿部の働きなくしてはあり得なかった。プレーに落とし込んだ「覚悟」が、それを可能としたのだった。

 W杯で世界に触れ、もうひと皮むけるために何が必要かも知った。それは1対1の局面でしっかり勝ち切る力。欧州の舞台で通用できるかどうかという自分への興味もあった。そんな折、W杯でのプレーを評価してくれた当時チャンピオンシップ(イングランド2部)のレスター・シティからオファーが届き、28歳での海外挑戦を決断する。

 阿部は「今だから言えることがある」と打ち明ける。

「ワールドカップが終わって気持ちの部分でひょっとしたらやり切った感みたいなものもあって、このまま終わってしまうかもしれないなって思ったんです。レッズにいたらやりやすい環境があるのは分かっていましたけど、レスターに行くしかないと考えました」

 まだ燃え尽きるわけにはいかなかった。

 今でこそチャンピオンシップでプレーする日本人プレーヤーが増えているが、当時は日本代表選手の欧州2部クラブへの移籍は珍しかった。やり切った感を消し去るために敢えて飛び込んだ。

 ピッチ内もピッチ外も、覚悟を持ってことに当たればなせば成る。W杯の大舞台が、それを教えてくれたのである。

(文中敬称略/第4回に続く)

■阿部勇樹 / Yuki Abe

 1981年9月6日生まれ、千葉県出身。ジェフ市原(現・千葉)の育成組織で育ち、98年に16歳333日でJ1デビュー。2000年のトップ昇格後も活躍し、03年のイビチャ・オシム監督就任後は主将となり躍進するチームの象徴となった。07年に浦和レッズへ移籍。10年のレスター移籍を挟み通算14シーズン所属し、AFCチャンピオンズリーグ優勝2回、天皇杯優勝2回、ルヴァンカップ優勝1回などタイトル獲得に貢献した。日本代表としても活躍し、10年W杯ではベスト16進出に貢献。21年の引退後は浦和ユースのコーチとなり、今季から監督を務める。

(二宮寿朗 / Toshio Ninomiya)



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二宮寿朗

にのみや・としお/1972年生まれ、愛媛県出身。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。2006年に退社後、「Number」編集部を経て独立した。サッカーをはじめ格闘技やボクシング、ラグビーなどを追い、インタビューでは取材対象者と信頼関係を築きながら内面に鋭く迫る。著書に『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『岡田武史というリーダー』(ベスト新書)、『中村俊輔 サッカー覚書』(文藝春秋、共著)などがある。

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