名将オシムに「見抜かれた」甘さ 監督になった阿部勇樹が実感、「到底真似できない」恩師の観察眼

浦和ユースの阿部勇樹監督の胸の中にはオシム氏の教えが息づいている【写真:近藤俊哉】
浦和ユースの阿部勇樹監督の胸の中にはオシム氏の教えが息づいている【写真:近藤俊哉】

連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」:阿部勇樹(浦和レッズユース監督)第2回

 日本サッカーは1990年代にJリーグ創設、ワールドカップ(W杯)初出場と歴史的な転換点を迎え、飛躍的な進化の道を歩んできた。その戦いのなかでは数多くの日の丸戦士が躍動。一時代を築いた彼らは今、各地で若き才能へ“青のバトン”を繋いでいる。指導者として、育成年代に携わる一員として、歴代の日本代表選手たちが次代へ託すそれぞれの想いとは――。

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 FOOTBALL ZONEのインタビュー連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」。阿部勇樹のサッカー人生を大きく変えたのが、恩師イビチャ・オシムとの出会いだった。それまで経験したことのなかったハードな練習メニューに、人生の哲学に通ずる深みのある言葉の数々。プロ4年目、21歳の阿部が過ごした刺激に満ちた日々を振り返る。(取材・文=二宮寿朗/全5回の2回目)

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 生涯の恩師になるとは思ってもみなかったに違いない。

 1990年のイタリア・ワールドカップでベスト8まで進んだユーゴスラビア代表を率いた欧州の名将イビチャ・オシムが2003年、ジェフユナイテッド市原(現・千葉)の監督に就任した。プロ4年目を迎えた阿部勇樹は彼の存在を知らなかったという。ただ、とにかくトレーニングがハードだという前情報だけは聞かされていた。

 ハードという表現では物足りなかった。ウルトラがつくか、スーパーがつくか、いやいやそれ以上の感覚だった。オールコートでの2対2など、エグいメニューのオンパレード。全体練習だけでもきついのに、終わったあともみっちりと走らされた。

 そのオシムからキャプテンに指名された。当時、21歳の若さでキャプテンを務めるのは異例。まったく予期していなかった阿部が驚いたことは言うまでもない。

「高校の時から試合に出させてもらって、上の人についていけばいいと正直思っていたし、自分のことだけしっかりやっておけばいいんだ、と。説明もなくて、あとになってオシムさんの本で理由を知ったくらいです。『責任感を持たせなきゃいけない』みたいな感じで書かれてあって、それを目にした時、オシムさんはもうすでに僕の甘い考えを見抜いていたんだなって思いましたね。いろんなところを見ているし、いろんなことを考えている。今、指導者になって振り返っても、到底真似できないなって思います」

 思うことがあっても胸に秘めていたタイプだった。だがキャプテンに指名されたことで否が応でも前に出ていかざるを得ない。指揮官の狙いをまだ知る由もなかったが、「もう甘えちゃいけない」とのマインドチェンジがさらなる成長を呼び込むことになる。

プロとして大切なことを教えてもらった

 キャプテン初年度の有名なエピソードといえば、先輩に促されてオフ日をもらえるようにオシムのもとへお願いに行った時のこと。「休むのは引退してからで十分だろう」と返り討ち。何かと怒られてばかりではあったが、嫌な気持ちになったことは不思議となかった。

 走って、走って、走りまくる。そのベースのうえで人もボールも動く連動と躍動。1年目は年間3位、2年目は年間4位と好成績を収める。

 日々のトレーニングがきつかった一方で「楽しかった」とも語る。

「練習で取り組んだことが、試合に(同じシチュエーションが)出て、勝利してというのを味わうと、選手たちもそのためにやっているんだと理解できる。それに練習自体、ほぼほぼ同じものがないんです。ちょっとずつルールを変えるので、新鮮さが毎回ある。

 オシムさんはハッキリとこうだと言う場合もありますけど、(サッカーは)相手もいることなので答えはそれだけじゃないとよく言っていましたね。準備していたものがダメだった時に、どうしていくのかを問われていた。だからこそ『考えて走れ』と。走るタイミングは今で良かったのか、じゃあ走るスピードはどうだったか、走るコースはどうだったかって僕自身凄く考えるようになりました。『24時間サッカーのことを考えろ』とも言われていて、ピッチ内のことを良くしていくには結局ピッチ外のところで何が必要かってなる。プロサッカー選手として大切なことを、ずっと教えてもらっていましたね」

 阿部はボランチ、センターバックを任され、オシムは複数のポジションをこなす選手を「ポリバレント」と表現した。科学用語「Poly(複数の)Valence(価数、原子価)」を語源とし、周りをつなげて組織を強靭化できる存在だと解釈できた。

 期待されているから怒られる。だが、その回数も次第に減っていく。

 この人に認められたい、褒められたい。それはジェフでプレーする選手たち全員の共通した思いであった。オシムはトレーニングのなかでいいプレーをすると、「ブラボー」が飛び出す。ボールを扱う美しいプレーより、むしろそのシーンを引き起こした目立たないランニングを称えた。だから皆、無駄走りを厭わなかった。試合に勝てば、監督と握手することができた。阿部の場合、それも試合に勝つ大きなモチベーションになっていたという。

「自分たちの力を出せないで負けると、オシムさんは『足を運んでくれたファン・サポーターの皆さんをガッカリさせて帰らせた。楽しんで帰ってもらえるよう、しっかり責任を持ってやれ』とたびたび言っていました」

 応援してくれるファン・サポーターに対して喜びを与えるという責任。この意識も阿部のなかで強くなっていった。

恩師と喜びを分かち合ったナビスコ初制覇

 オシム体制3年目の2005年11月、ジェフはナビスコカップ(現ルヴァンカップ)決勝に進出して初タイトルに王手をかける。前回ファイナルに駒を進めたのは、阿部がJリーグデビューを果たした1998年。この時はスタンドから声援を送ったが、チームはジュビロ磐田に0-4と大敗している。

「優勝したら祝勝会に参加できると聞いて楽しみにしていたんですけど、負けちゃって。(国立競技場から)そのままJヴィレッジに行って、翌日ユースの試合をした記憶があります。だからこそ何か一つタイトルを獲れば、ジェフというクラブがこれからいい方向に行くんじゃないかって思っていましたし、ましてや監督はオシムさんですから、勝って一緒に喜びたいなという気持ちも強かったです」

 相手はこの年、圧倒的な攻撃力で初のJ1制覇を果たすことになるガンバ大阪。延長戦でも決着がつかず、PK戦へ。いつものジャージ姿ではなくスーツで指揮したオシムは、それを見ないでベンチを離れた。

 先攻のガンバは1人目、“名手”遠藤保仁が決め切れない。その後に登場した阿部は呼吸を整えながら、ゴール右に冷静に蹴り込んだ。残り4人も全員が決めてタイトルを掴むと、ピッチサイドにゆっくりと現れたオシムとも喜びを分かち合うことができた。

 その翌年、オシムは日本代表監督に就任し、阿部はナビスコ2連覇を置き土産に浦和レッズ移籍を決断する。ここにもオシムの“教え”があった。

「オシムさんからはよく『リスクを冒せ』『チャレンジしろ』と言われていましたから。ジェフに残っていたら、そのまま試合に出られていたかもしれないですが、環境を変えたら出られないかもしれない。その後、レスターに行く時もそうですが、自分の人生において決断する際に大事なものとして自分の中にあったとは思います」

 リスクを冒せ、チャレンジしろ――。

 それはピッチ内にとどまらず、人生もまた同じ。オシムの薫陶を受けた阿部勇樹の哲学となっていく。

(文中敬称略/第3回に続く)

■阿部勇樹 / Yuki Abe

 1981年9月6日生まれ、千葉県出身。ジェフ市原(現・千葉)の育成組織で育ち、98年に16歳333日でJ1デビュー。2000年のトップ昇格後も活躍し、03年のイビチャ・オシム監督就任後は主将となり躍進するチームの象徴となった。07年に浦和レッズへ移籍。10年のレスター移籍を挟み通算14シーズン所属し、AFCチャンピオンズリーグ優勝2回、天皇杯優勝2回、ルヴァンカップ優勝1回などタイトル獲得に貢献した。日本代表としても活躍し、10年W杯ではベスト16進出に貢献。21年の引退後は浦和ユースのコーチとなり、今季から監督を務める。

(二宮寿朗 / Toshio Ninomiya)



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二宮寿朗

にのみや・としお/1972年生まれ、愛媛県出身。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。2006年に退社後、「Number」編集部を経て独立した。サッカーをはじめ格闘技やボクシング、ラグビーなどを追い、インタビューでは取材対象者と信頼関係を築きながら内面に鋭く迫る。著書に『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『岡田武史というリーダー』(ベスト新書)、『中村俊輔 サッカー覚書』(文藝春秋、共著)などがある。

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