ビスマルク、小野伸二を「抑えてこい」 デビュー戦で涙…17歳の阿部勇樹が覚悟を決めた2試合

連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」:阿部勇樹(浦和レッズユース監督)第1回
日本サッカーは1990年代にJリーグ創設、ワールドカップ(W杯)初出場と歴史的な転換点を迎え、飛躍的な進化の道を歩んできた。その戦いのなかでは数多くの日の丸戦士が躍動。一時代を築いた彼らは今、各地で若き才能へ“青のバトン”を繋いでいる。指導者として、育成年代に携わる一員として、歴代の日本代表選手たちが次代へ託すそれぞれの想いとは――。
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FOOTBALL ZONEのインタビュー連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」。今回は高校2年生でJリーグデビュー、10代の頃から日の丸を背負って世界と戦い、数々の印象的な活躍を見せてきた阿部勇樹の今を追う。2021年シーズン限りで引退した阿部は、すぐに浦和ユースのコーチとなり今季から監督に就任。育成年代の指導に情熱を注ぐ裏には、16歳でプロの世界に足を踏み入れた自身の経験があった。(取材・文=二宮寿朗/全5回の1回目)
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「考えて走る」体現者だった阿部勇樹は、「走りながら考える」指導者である。
2021年シーズンを終えて40歳で現役を引退し、そのまま浦和レッズに残ってユースのコーチに就任。今季からユースの監督となり、昇格した高円宮杯U-18プレミアリーグの舞台を戦っている。
ティーンエイジの選手たちの背中を押すことで彼らを走らせ、そのうえで寄り添おうとする。イビチャ・オシムの薫陶を受けてきた人は、サッカーに青春を捧げる者が成長を呼び込むにはどうしたらいいかを常に考える。伝えてきた「ミスしたっていいから」は、自分の経験を踏まえての深い言葉だ。
「僕は高校生の時に巡り合わせもあってJリーグの試合に出させてもらいました。でもやっぱりミスを怖がって、いざミスをしたらへこんでしまって。気にすることによって、チャレンジが減っていく自分がいましたから。ミスしていいっていうよりは、チャレンジしていこうよってこと。ネガティブな弱気のプレーを選択してのミスなのか、チャレンジによるミスなのか、もちろんそこはちゃんと見極めて伝えてあげたい。僕はオシムさんからずっと『リスクを冒せ』と言われてきたし、最終的にはその言葉にいきつくかなと思うんです」
阿部勇樹は多大な実績を残した日本サッカー界のレジェンドだ。
J1通算歴代5位の590試合出場を誇り、139試合連続フル出場はフィールドでは中澤佑二に次いで2番目の記録。ジェフユナイテッド千葉、浦和でキャプテンを務め、いくつものタイトルを獲得した。A代表でも53キャップを誇り、2010年の南アフリカ・ワールドカップではアンカーとして全試合に先発して、チームのベスト16入りに貢献している。複数のポジションをこなすオシムが持ち込んだ用語「ポリバレント」の代表格であり“アベッカム”と称されるほどFKの名手でもあった。
委縮したデビュー戦と自信を得た2年目の2試合
ジェフユース時代、当時のJ1史上最年少記録となる16歳333日でJリーグデビューを果たした。1998年8月、ガンバ大阪戦の終盤に途中出場したものの、伸び伸びどころか萎縮する自分がいた。
「ジェフで育ってきた自分が憧れの人たちと一緒にプレーするなかで、気持ち的には“ミスせず、安全に”でした。いや、正確に言うなら“ミスして足を引っ張らないようにしなきゃ”のほう、ですかね。見ていた人からすれば、物足りなさはあったんじゃないかと思うんです」
何か決定的なミスを犯したわけでもない。それでも延長戦で敗れてしまったことで、自分のせいだと思い込んだ。気がつけば涙があふれていた。とめどなく流れる悔し涙から、阿部のトップキャリアは始まった。
萎縮からは何も生み出せない。もうあんな思いはしたくないとの心の叫びが、日々の向上を生み出していく。
高3になった1999年シーズン、ユース登録のままゲルト・エンゲルス監督のもと前年度チャンピオン、鹿島アントラーズとの開幕戦で後半から送り出される。攻撃の要、ビスマルクを抑えろというミッションを受けた。
「マンマークしろと言われて、何もさせないように厳しくいこう、と。勝手に体が動いた感覚がありました。0-4で負けてしまったけど、自分がやれることは出せたと思えた。そうしたら次のレッズ戦に先発で起用されて、今度は『小野伸二を抑えてこい』ですからね。鹿島戦のプレーを評価してくれたからこそ使ってくれたと感じて、やられるのは当たり前だから、簡単にやられないようにしようって必死にやって、確かスコアは0-0だったかな。なんとかこのチャンスをものにしなきゃと思ったし、鹿島と浦和の2試合が少しだけ自分に自信を与えてくれた。僕が変われた、最初の出来事だったんじゃないですかね」
受けた任務をきれいにやろうとするのではなく、しぶとく食らいつこうとした。萎縮する暇も、ミスが頭にチラつくこともない。全力を出し切ろうとして出し切ったまで。この感覚が、17歳の阿部の手にジンジンと残った。覚悟を決めたら、一歩前に踏み出せるのだと身をもって知った。
「リセットできる場所」だった高校生活
1999年のジェフは残留争いに巻き込まれてエンゲルスは途中解任となるものの、ニコラエ・ザムフィールが後任のバトンを受け取っても、阿部はスタメンで起用された。
コンスタントに出場できているとはいえ、残留争いは精神的にも苦しかった。ただ阿部には「リセットできる場所」があった。それが日々の高校生活であった。
元々、サッカーに集中するべく定時制高校に行く考えもあったという。しかし両親、高校教師を務める姉のアドバイスもあって一般受験して東京学館浦安高校に進学する。
「今振り返ってみると、そういう選択をして良かったなと思います。ピリピリした雰囲気のなかトップチームでの練習や試合をやっていると、高校に行くことで気が紛れたり、素の自分というものを出せたり、そういう場になりましたから。一番の楽しみが学食なんですよ。お昼休みになるチャイムの瞬間に、みんなと競い合うようにして上の階から降りていきましたから(笑)。カレーが美味しかったなあ。いつも大盛で食べていました」
オンとオフ。
いいオフがあるからいいオンをつくることができる。高校時代にそのサイクルの大切さに気づけたことも大きかった。頭の片隅にどうしてもサッカーがあるのは仕方がないとしても、リセットして余白ができればオンの時に集中を生み出せた。現役時代、ずっとベースに置いてきたことでもある。サウナブームが起こる前からの“サウナー”。だからこそ今、ユースの選手たちにオンのみならず、オフのことも経験値として伝えられている。
「やる時はしっかりやって、逆に緩めるところはしっかり緩めて。指導者になってもそこは継続してやっていますし、選手たちにはそこも大事だよってことは言っています。普段から僕が選手たちに見せていけるようにしたいなとは思っているんですけどね」
高校を卒業した2000年に晴れてトップチームに昇格して、プロの道を歩んでいく。ジェフの新しい顔になっていくなか、人生を変える恩師が阿部の目の前に現れる――。
(文中敬称略/第2回に続く)
■阿部勇樹 / Yuki Abe
1981年9月6日生まれ、千葉県出身。ジェフ市原(現・千葉)の育成組織で育ち、98年に16歳333日でJ1デビュー。2000年のトップ昇格後も活躍し、03年のイビチャ・オシム監督就任後は主将となり躍進するチームの象徴となった。07年に浦和レッズへ移籍。10年のレスター移籍を挟み通算14シーズン所属し、AFCチャンピオンズリーグ優勝2回、天皇杯優勝2回、ルヴァンカップ優勝1回などタイトル獲得に貢献した。日本代表としても活躍し、10年W杯ではベスト16進出に貢献。21年の引退後は浦和ユースのコーチとなり、今季から監督を務める。
(二宮寿朗 / Toshio Ninomiya)
二宮寿朗
にのみや・としお/1972年生まれ、愛媛県出身。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。2006年に退社後、「Number」編集部を経て独立した。サッカーをはじめ格闘技やボクシング、ラグビーなどを追い、インタビューでは取材対象者と信頼関係を築きながら内面に鋭く迫る。著書に『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『岡田武史というリーダー』(ベスト新書)、『中村俊輔 サッカー覚書』(文藝春秋、共著)などがある。





















