「この契約書を無効にできたら」欧州の移籍現場…心を鷲掴みにした日本人TDの交渉術

ザンクト・ペルテンでテクニカルディレクターなどを務めるモラス雅輝氏【写真:中野吉之伴】
ザンクト・ペルテンでテクニカルディレクターなどを務めるモラス雅輝氏【写真:中野吉之伴】

オーストリア2部ザンクト・ペルテンでチーム作りの重責を担うモラス雅輝

 欧州のプロサッカー界で、日本人が責任ある役職に就くのは今もなお狭き門だ。そんな厳しい現実のなか、欧州で25年近い指導歴を持つモラス雅輝。そんな彼は現在、オーストリア2部ザンクト・ペルテンでテクニカルディレクター、育成ディレクター、U18監督を兼務し、経営の混乱を経たクラブの未来を担う。限られた予算の中で戦略的なチーム作りをどのように進めているのか。その仕事に密着し、選手獲得の舞台裏に迫る。(取材・文=中野吉之伴)

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 欧州のプロクラブで働く日本人は、選手だけでなく、指導者やスタッフとして働く人々も少しずつ増えてきた。ただし、クラブ内で責任あるポジションを任される日本人は、今なお少ない。現地語を自在に話せることはもちろん、その土地の文化や習慣、常識や価値観を深く理解し、違和感なくコミュニケーションが取れる人間性と総合的な能力が求められる世界だからだ。

 その厳しい壁を乗り越えて、長年にわたり欧州で実績を積み上げてきた1人がモラス雅輝である。浦和レッズやヴィッセル神戸でのコーチ経験を経て、欧州での指導歴は25年近くとなり、特にオーストリア国内では高い評価を得ている。現在は、オーストリア2部リーグのザンクト・ペルテンでテクニカルディレクター、育成ディレクター、U18監督と3つの役職を兼務し、重責を担っている。

 実際にモラスはザンクト・ペルテンで、どのような仕事をしているのか。これまでにも、現場で指導者としての姿は何度か見てきた。しかし、クラブの中核を担うディレクターとして、具体的にどう動いているのかを間近で見たことはなかった。現場のリアルな空気に触れたい――そう思って、ザンクト・ペルテンまで足を運んでみることにした。

「シーズン終盤からは、特に来季に向けてのチーム作りと合わせて、選手契約に関するアポが詰まりに詰まっているんです」

 スタジアムにあるオフィスを訪れると、モラスがそういって笑顔で迎え入れてくれた。事務作業を進めながらもひっきりなしに電話が鳴る。1つ1つ丁寧に対応しながら、スタッフに的確かつ素早い指示を飛ばす。

 ザンクト・ペルテンは2年前、ドイツ・ブンデスリーガのヴォルフスブルクと国際提携を結び、さまざまな形での交流を計画していた。しかし紆余曲折を経て1年ほど前に頓挫。その後、投資家グループが介入し、クラブ改革を推し進めようと躍起になっていたものの、かき回すだけかき回して数か月後には撤退するなど、激動の時期を経験してきた。

選手と父親に丁寧な移籍交渉「うちはビッグクラブではない。でも…」

 こうした背景のなか、テクニカルディレクターであるモラスには多くの重要な仕事が課されている。なかでも重要な仕事の1つが、セカンドチームにあたるU21チームの構成だ。オーストリア4部に所属するU21チームで貴重な経験を積んだ有望選手が、トップチームへと順調にステップアップするルートの確立は、クラブにとって生命線の1つになっている。

 そんなある日、モラスのもとに1本の連絡が届く。オーストリアの名門ラピッド・ウィーンのU18でレギュラーのセンターバックを務めていたオリバー・ヴォルフが、U21昇格を見送られたという知らせだった。

「普段から、ラピッド・ウィーンの育成ディレクターとはいい関係を築かせてもらっています。いつも非常にオープンに、お互いの状況について話せています。どんな選手が来季必要か、ある選手の来季以降の予定はどうかといったことも、包み隠さずに話し合えている。だから、こうした知らせもダイレクトで伝えてもらえるんです」

 モラスはそう語る。ザンクト・ペルテンのU21は、キャプテンの選手を含めCBが軒並み退団することになっており、実力のあるCBの補強は急務だった。ヴォルフの資質と将来性はラピッド・ウィーン側も高く評価しているものの、U21チームが2部所属の同クラブでは即戦力として出場するにはやや力不足という判断だった。一方、ザンクト・ペルテンのU21チームは4部所属ながらプロクラブという立ち位置にあり、実戦経験を積んでステップアップを目指す意味では大きなアピールポイントになる。

 約束の時間にヴォルフは父親とともにクラブを訪れた。笑顔で迎え入れたモラスは、まずクラブとラピッド・ウィーンとの良好な関係を伝えたうえで、ザンクト・ペルテンU21のチーム事情、主力として期待を寄せていること、ここでのプレーが自身のキャリアにとって大事であることを丁寧に説明していく。時折、サッカーの話題から離れて学業のことを話したり、父親と昔のサッカーの思い出を語り合ったりと、互いにコミュニケーションが取りやすいような雰囲気作りにも気を配る。

 ひとしきり話を終えたモラスは、目の前に置いてあった書類を手にした。実はすでに契約書を準備していたのだ。ザンクト・ペルテンは潤沢な予算を持つクラブではない。だが、その限られた枠の中で提示できる最大限の条件を整え、誠意を見せた。

「うちはラピッド・ウィーンのようなビッグクラブではない。でも、だからこそ、それをネガティブに考えるのではなく、武器にすべきだと考えています。僕らは若手選手を積極的に起用し、成長できる環境を作り上げています。来季トップチームは新しい監督を迎え入れますが、U21選手を積極的に引き上げることを考えられる人を優先してリストアップしています。昨季もU18からU21へと昇格した選手がトップチームでの練習参加を生かして、来季トップチームへ完全昇格する選手がいます。そうしたルートがうちにはあるんです」

率直に伝えた現実と口説き文句…努力が実を結んだ瞬間

 話を進めるなかでヴォルフの姿勢が徐々に前のめりになってくる。興味を示す様子が言動の節々から伝わってくる。モラスは、ピッチ上の起用法だけでなく、将来を見据えたキャリアプランについても丁寧に寄り添うことを強調した。サッカーだけが人生のすべてではない。プロ選手になれる保証など誰にもできない――その現実も率直に伝えることを忘れなかった。

 続いて、移籍にかかる費用や契約書の有効範囲について、1つ1つ丁寧に説明していく。オーストリアでは、アマチュア選手に対して結べる契約には、勝利給と基本フィーしか盛り込めない。そして「プロ契約した瞬間にこの契約書は無効になる」と話したあと、ヴォルフの目を真っ直ぐに見てこう伝えた。

「君がうちでこの契約書を無効にできたら素晴らしいと思うんだ」

 その一言にヴォルフの表情がほころんだ。誰だって、自尊心をくすぐられて悪い気はしない。隣の父親も、その言葉を好意的に受け取った様子だった。面談後、モラスが2人を案内してスタジアム内の施設を見て回り、見学の合間にはサッカー以外の話で盛り上がる。スペインのイビサ島に休暇で出掛ける予定だというヴォルフに対し、モラスはかつて訪れた際に見つけた美味しいレストランの話を披露すると、父親もその話題に乗ってくる。やがて、2人は「じっくりと考えて、数日中に返事します」という言葉を残し、車でウィーンへと戻っていった。

 翌日、モラスはラピッド・ウィーンの育成ディレクターと連絡を取り合い、「ヴォルフを正規移籍ではなく、レンタルで出したい」という意向を伝えられる。ザンクト・ペルテンが当初思い描いていたシナリオとは異なっていた。ヴォルフを正規獲得し、U21で実戦経験を積ませながらトップチーム昇格の道筋を作る。この方法であれば、クラブとしては確実にリターンが期待できたからだ。

 先方の提案に対して、モラスは即座に否定的な反応を示すことはなかった。むしろ彼の頭の中では逆転の発想を巡らせ、レンタル移籍を起点とした新しい可能性が展開されていた。

「これをきっかけに、新しいルートを作ることができると思うんです。ラピッド・ウィーンのようなクラブのアカデミーでダイレクトにU21へ昇格できない選手が、1~2年うちで経験を積んで、成長して戻り、そこからU21へ昇格し、トップへの道を切り開いていく。前例ができたら続く選手が出てくる。選手がいなくなることは、ほかの選手がプレーできる機会を作れることでもある。全体像から戦略的な考えを持つことがディレクターにとってはとても大事ですね」

 後日、ヴォルフから正式な連絡が届いた。

「ザンクト・ペルテンでお世話になりたいと思います」

 モラスの努力が実を結んだ瞬間だった。その安堵も束の間、彼はすぐにまた次の仕事へと動き出していた。(文中敬称略)

(中野吉之伴 / Kichinosuke Nakano)



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中野吉之伴

なかの・きちのすけ/1977年生まれ。ドイツ・フライブルク在住のサッカー育成指導者。グラスルーツの育成エキスパートになるべく渡独し、ドイツサッカー協会公認A級ライセンス(UEFA-Aレベル)取得。SCフライブルクU-15で研修を積み、地域に密着したドイツのさまざまなクラブで20年以上の育成・指導者キャリアを持つ。育成・指導者関連の記事を多数執筆するほか、ブンデスリーガをはじめ周辺諸国で精力的に取材。著書に『ドイツの子どもは審判なしでサッカーをする』(ナツメ社)、『世界王者ドイツ年代別トレーニングの教科書』(カンゼン)。

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