17年在籍→契約満了で「地元に戻りたい」 少子化問題、文化の違い…王国復活へ「痛感させられる日々」

「いずれは地元でサッカーに関わりたい」…石川竜也氏が抱いていた思い
「サッカー王国」と呼ばれた静岡の現状に強い危機感を抱き、地元に舞い戻った元プロ選手がいる。黄金世代の一員として活躍し、現在はJ2藤枝MYFCでアカデミー・サブダイレクター兼U-15監督を務める石川竜也氏だ。育成の現場に身を置く今、様々な課題と真正面から向き合っている。藤枝と静岡サッカー全体を盛り上げるため――。長年プロの世界を生き、今なお地元に情熱を注ぐ男の挑戦に迫る。(取材・文=元川悦子/全4回の4回目)
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2007年に鹿島アントラーズからレンタルで加入して以降、17年間(選手11シーズン、指導者6シーズン)にもわたって在籍したモンテディオ山形を離れ、2024年に地元・藤枝に戻った黄金世代の左サイドバック(SB)石川竜也。彼が藤枝東高校でプレーしていた当時は、まだ藤枝MYFCは存在しておらず、現在本拠地として使用されている藤枝総合運動公園サッカー場も完成していなかった。
藤枝MYFCは2009年に創設され、2010年に静岡FCと合併。2014年にJリーグへと参入し、J3で9シーズンを戦い抜いた。そして2023年からJ2に昇格すると、今季でJ2参入3シーズン目を迎えている。
「山形との契約が切れるタイミングで、『そろそろ地元に戻りたい』と考えていました。自分の子供や両親のことも考えて『いずれは地元でサッカーに関わりたい』という思いがあったので、いいタイミングで藤枝MYFCに呼んでいただき、僕としてはすごく嬉しく思っています」と語る石川の言葉からは、地元への強い愛着が滲み出ていた。
黄金世代の一員としてU-20ワールドユース(現U-20ワールドカップ)準優勝という輝かしい実績を持ち、プロとして長年トップレベルで戦ってきた人物だけに、藤枝MYFCでもトップチームのスタッフとしての起用もあり得たはずだ。だがクラブは、山形時代に5年間アカデミーで指導を積んだ経験を評価し、現在のポジションでの迎え入れを決めたのだろう。
「藤枝MYFCは歴史がまだ浅く、アカデミーからトップに上がった選手が1人も出ていないんです。静岡のユース年代を見ると、僕の母校である藤枝東、(横浜F・マリノスの遠野大弥らを輩出した)藤枝明誠などの強豪校が近くにありますし、静岡学園という高体連トップのチームもある。清水エスパルス、ジュビロ磐田という歴史の長いJクラブもありますし、今はアスルクラロ沼津もある。本当に地域ごとに多様なサッカー文化があって、しのぎを削っている状況です」
現場に立つ石川は、さらに覚悟とともに、静かな決意を漂わせる。
「そうしたなかで、僕らのクラブが優れた人材を獲得するのはなかなか難しい。それは現実としてあります。少子化も進み、子供自体が減るなか、4種(小学生世代)からいかにしてサッカー選手を増やしていくかという大きな問題もあります。現状を良くしていくためには、まず僕ら指導側のレベルアップが必要。そうしたところから地道にやっていかないといけない。そう痛感させられる日々です」

地元・静岡に戻って感じた難しさ「地域それぞれに独自の文化がある分…」
静岡が「日本屈指のサッカー王国」と称されてきたことに異を唱える人はいないだろう。1998年フランスW杯の日本代表を見ても、登録選手22人中10人が静岡にルーツを持っていた。しかし2022年カタールW杯では、静岡出身として名を連ねたのは磐田ユース育ちの伊藤洋輝(バイエルン・ミュンヘン)ただ1人。今や静岡は、全国の中で突出した存在ではなくなっている。
これはほかの地域の台頭がいかに著しいかを示す事実でもある。長く山形で暮らした石川も、地元に戻ってその変化を実感する1人だ。
「久しぶりに静岡に戻ってきて感じたのは、地域それぞれに独自の文化がある分、県全体でまとまって1つの方向に進んでいく難しさを感じることがあります。僕が長くいた山形は、県全体で一致団結してレベルアップしようという機運がありました。『こういう選手をモデルに選手を伸ばしていこう』という話も育成年代の指導者の間で出ていたと思います」
石川は地元を冷静に見つめ、謙虚な姿勢で課題に向き合う。
「それは隣の愛知県や岐阜県などもそうかもしれません。人口が静岡よりも多いというアドバンテージもありますが、地域の関係者が結束してみんなで頑張ろうという意気込みが感じられますし、結果も付いてきている。僕らも学んでいかなければいけない部分はあると思います」
静岡県全体が一致団結して歩みを進めれば、計り知れないパワーを生み出すことは間違いない。だが、長年にわたって切磋琢磨しながら静岡サッカーをけん引してきた清水と藤枝という2大地域には、それぞれの歴史があり決して一筋縄ではいかない部分もある。さらに現在では、静岡県内に4つのJクラブが存在し、それぞれが独自に選手育成に取り組んでいることも、状況をより複雑にしている。
そうしたなかで、藤枝MYFCのアカデミー・サブダイレクターを務める石川は、自クラブを第一に考えつつも、静岡サッカー全体のさらなる発展・成長を強く願っている。そして、そのために自分に何ができるのかを、真剣に模索し続けている。
「まずは藤枝MYFCとして、少しでもウチに来たいと思ってもらえるように、環境を改善し、指導者のレベルを引き上げ、スカウティング能力を高めるなど、様々な努力が求められます。人材獲得競争は、静岡県内に限った話ではありませんし、全国に目を向ければ、多くのJクラブが子供たちのスカウトを強化しています。同じ1979年組のモト(本山雅志/現・鹿島アカデミースカウト)も全国を回って良い選手を探している。鹿島とは歴史も実績も違いすぎるので比較は難しいですけど、『藤枝の育成はしっかりしている』と言われるようにしていかないといけない」
恩師や仲間のネットワーク「静岡県内の連携も強化していければ」
そうした基盤作りに向き合いながら、石川の視線は静岡全体の未来にも向けられている。
「トップチームがJ2で戦っている今、興味を持ってくれる子供たちもいると思います。そうした子供たちを少しでも増やしていくことが先決です。そのうえで静岡県内の連携も強化していければと考えています。それは僕1人ではなかなか難しいですが、他地域を見ても連携は欠かせない。そういう認識を持ってもらえるように、少しずつ動いていきたいですね」
幸いなことに、現在は恩師の服部康雄氏が静岡県サッカー協会副会長の要職を務めており、石川の意見を伝えやすい環境が整っている。また、高校時代に共闘した佐賀一平や河村優も藤枝東で指導にあたっており、横のネットワークを構築するうえでも恵まれた状況にある。
こうした人脈もフルに活用しながら、藤枝の、そして静岡全体のサッカーをさらに盛り上げてほしいところ。それが今の石川に託された新たなミッションであり、ここからが本当のスタートだ。(文中敬称略)
(元川悦子 / Etsuko Motokawa)

元川悦子
もとかわ・えつこ/1967年、長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに転身。サッカーの取材を始める。日本代表は97年から本格的に追い始め、練習は非公開でも通って選手のコメントを取り、アウェー戦もほぼ現地取材。ワールドカップは94年アメリカ大会から8回連続で現地へ赴いた。近年はほかのスポーツや経済界などで活躍する人物のドキュメンタリー取材も手掛ける。著書に「僕らがサッカーボーイズだった頃1~4」(カンゼン)など。





















