長谷部誠の高校時代は「ヤンチャ」 居残り練習はなし…浦和入りを引き寄せた“勝負強さ”

石川竜也氏が浦和に見いだされた高校時代の長谷部誠氏を回想【写真:産経新聞社】
石川竜也氏が浦和に見いだされた高校時代の長谷部誠氏を回想【写真:産経新聞社】

石川竜也氏が語る後輩・長谷部の凄さ「客観視する能力が非常に高かった」

 日本代表のキャプテンとして3度のワールドカップ(W杯)に出場し、40歳で惜しまれながらスパイクを脱いだ長谷部誠。だが、高校時代の彼は「決して飛び抜けた存在ではなかった」と語る人物がいる。現在、J2藤枝MYFCでアカデミー・サブダイレクター兼U-15監督を務める石川竜也氏は、母校での教育実習中に高校3年の長谷部と接した経験を持ち、当時の“素顔”を今も鮮明に記憶しているという。目立たなかった高校生は、なぜ代表の重責を担うまでに成長できたのか――。その成長過程の一端を紐解く。(取材・文=元川悦子/全4回の3回目)

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 1998年フランスと2002年日韓のワールドカップ(W杯)に参戦した名ストライカー・中山雅史(現・アスルクラロ沼津監督)を筆頭に、数々の名選手を輩出してきた藤枝東高校。その中でも、一際存在感を放ったのが、2024年5月に40歳で現役を退いた長谷部誠(現・日本代表コーチ/フランクフルトU-21アシスタントコーチ)である。

 2002年に浦和レッズでプロキャリアをスタートさせた長谷部は、2006年のJ1リーグ優勝、2007年のAFCチャンピオンズリーグ制覇に貢献。2008年1月にドイツ・ブンデスリーガ1部のヴォルフスブルクへ移籍し、2008-09シーズンにはタイトル獲得の原動力となった。以降はニュルンベルク、フランクフルトと渡り歩き、ドイツでは計17シーズンにわたってプレー。フランクフルト時代にはDFBポカールやUEFAヨーロッパリーグも制覇するなど、クラブの象徴的存在としてキャリアを築き上げた。

 日本代表でも、その存在感は際立っていた。2010年南アフリカW杯直前、突如としてキャプテンに指名されると、苦境にあったチームをベスト16に導く。以降も2014年ブラジル大会、2018年ロシア大会と3大会連続でキャプテンを務め、うち2大会でグループリーグ突破を果たした。ピッチ内外で圧倒的な安定感と統率力を発揮し、日本代表のサッカー史においても稀有な存在だった。

 そうした実績と人格を買われ、森保一監督は引退直後の長谷部をコーチングスタッフに加えるという、大胆なアクションを起こしたのである。そんな後輩の姿を見つめてきた1人が、4学年上にあたる石川竜也氏(現・藤枝MYFCアカデミー・サブダイレクター兼U-15監督)だ。

「長谷部は僕の4学年下。当時は飛び抜けていた選手ではなかったけど、人間性がしっかりしているし、自分のことを常に冷静に客観視する能力が非常に高かった。だからこそ、どこへ行っても活躍できる。サッカー選手としてのポテンシャルやテクニックは今の若い世代のほうが、ひょっとしたら高いのかもしれないけど、長谷部はそういう部分が長けていたんだと感じます」

藤枝MYFCでアカデミー・サブダイレクター兼U-15監督の石川竜也氏【写真:元川悦子】
藤枝MYFCでアカデミー・サブダイレクター兼U-15監督の石川竜也氏【写真:元川悦子】

母校・藤枝東高で教育実習、長谷部らの指導サポート「突出した印象はない」

 実は石川が筑波大学4年だった頃、教育実習で母校・藤枝東高校を訪れ、長谷部や大井健太郎(現・大井健太郎サッカースクール代表)、成岡翔(現・解説者)らが在籍していたサッカー部の選手指導を手伝ったことがあったという。

「ちょうど長谷部が高校3年、大井と成岡が2年の時のチームで、監督は僕らの頃と同じ服部先生(康雄/現・静岡県サッカー協会副会長)だったんですけど、僕はサッカー部の練習に参加したり、インターハイ決勝のベンチにも入らせてもらいました」

 その年の静岡県決勝はエコパスタジアムで行われ、相手は静岡学園高校。相手エースは、現在藤枝MYFCのアカデミーでともに働く谷澤達也だった。接戦の末、藤枝東がPK戦を制して優勝を果たした。

「当時、(成岡)翔のほうが評価も高かったような記憶があります。長谷部もテクニック的には上手かったですけど、そこまで突出した印象はなかったです。身長があり、スッと抜けていくようなスムーズなドリブルは印象に残っていますけど、そこまで真面目なタイプじゃなかったような気がします(笑)」

 20年以上前の記憶をたどりながら語る石川の表情には、長谷部への親しみと誇りが滲む。

「居残り練習をしていた記憶はなくて、どちらかというとヤンチャなタイプだったんじゃないかな(笑)。当時、彼に関わった人たちも、彼があそこまで突き抜けた領域まで上り詰めるとは想像していなかったと思いますよ」

 長谷部を浦和に誘ったOBの宮崎義正氏(元スカウト)によれば、長谷部が本格的に成長曲線を描き始めたのは、まさに石川が教育実習で接していた時期だったという。宮崎氏の強い推薦が実り、長谷部の浦和入りが実現した。

 プロ入り後、当初は攻撃的なポジションを任されていたが、やがてボランチにコンバートされて才能が大きく開花。日本代表やブンデスリーガでの活躍へとつながっていくことになる。

「高校時代、ボランチやセンターバックのイメージはなかった長谷部が、ああいうふうに変化していけたのは、頭の良さが大きいんでしょうね。彼の才能を見出した宮崎さんはさすがだと思いますし、尊敬する先輩です」(石川)

長谷部が兼ね備えていた「認めさせる力」

 石川自身も、モンテディオ山形で現役を終えたあと、一時期はスカウトを担当。だからこそ、選手を見る眼の難しさ、そして“その一瞬”にすべてが決まる現場のリアルを理解している。

「僕も山形で現役引退後、中学生のスカウトをやっていたことがありますが、足を運んだ時にピッチでパっと輝きを放つ選手というのは確かにいます。それが狙いを定めていた選手の場合もあれば、全く気に留めていなかった選手というケースもある。特にプロになって成功する選手というのは、後者のようなチャンスをモノにする人間なんです」

 そして石川は、長谷部の“勝負強さ”をこう称えた。

「スカウトが見にいった時に、自分の能力を発揮して、認めさせる力があるというのはすごく大きなポイント。長谷部はそういうところもあったんでしょうね」

 2024年5月の引退会見で、長谷部本人も「藤枝で育った環境を振り返ってみると、粘り強さだったり、歯を食いしばるとかはその頃に培われたもの。あの中で育てていただいたことにすごく感謝をしています」と語っていた。日本屈指のサッカーどころで、自らに誇りを持ち、真摯にサッカーと向き合った時間があったからこそ、浦和やドイツ、そして日本代表でも重圧に押しつぶされることなく、キャリアを築き続けることができたのだろう。

 その長谷部の成長過程に、短いながらも直接関われた経験は、石川にとってもかけがえのないものだったはずだ。そして今、その貴重な経験を糧に、地元・藤枝の育成現場で「第二の長谷部」を育てるべく、石川は変わらぬ情熱で日々指導にあたっている。(文中敬称略)

※第4回に続く

(元川悦子 / Etsuko Motokawa)



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元川悦子

もとかわ・えつこ/1967年、長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに転身。サッカーの取材を始める。日本代表は97年から本格的に追い始め、練習は非公開でも通って選手のコメントを取り、アウェー戦もほぼ現地取材。ワールドカップは94年アメリカ大会から8回連続で現地へ赴いた。近年はほかのスポーツや経済界などで活躍する人物のドキュメンタリー取材も手掛ける。著書に「僕らがサッカーボーイズだった頃1~4」(カンゼン)など。

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