津波に襲われた実家…瓦礫の中に光「床下に落ちていて」 元日本代表を変えた「3・11」

“自分さえよければ”→「誰かのために」…高萩洋次郎が東北に捧げた初V
サンフレッチェ広島やFC東京で活躍し、今年1月に現役引退を発表した元日本代表MF高萩洋次郎氏が、「FOOTBALL ZONE」のインタビューに応じた。2011年に発生した東日本大震災では、福島・いわきの実家が津波の被害に遭った。「3・11」をきっかけに、サッカー選手としても、ひとりの人間としても、大きく変化した。(取材・文=FOOTBALL ZONE編集部・井上信太郎/全11回の5回)
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「3・11」が高萩の人生を大きく変えた。知らせを聞いたのは練習場だった。翌日だったか、数日経ってからだったかは覚えていない。当時のミハイロ・ペトロヴィッチ監督に、実家や家族の状況を伝えると、チームを離脱する許可を出してくれた。
「どこかでレンタカーを借りたような記憶はあるんですけど、どうやって行ったのか思い出せないんです。でもまだ原発が話題になる前で、実家にはすぐに行けました。本当何もできなかったですけど、様子は見に行くことができました」
いわき市岩間町にある実家を津波が襲った。1階にいた祖母は、今も行方不明のままだ。一軒家の実家に向かうと、奇妙な形になっていた。1階の壁は津波に流されて瓦礫だらけ。だが柱は強かったため流されずに残っており、津波の高さが届かなかった2階に至ってはほぼ“そのまま”残っていた。
「こんなことあるんだと。2階は本当にそのまんま残っていて、地震の影響を全く受けていなくて。でも1階にあったピアノとかは流されていて、グチャグチャになっているし……。本当に不思議でしたね」
広島を発つ前に用意した作業用の長靴を履いて中に入り、1階の瓦礫を片付け始めた。床も抜けているため、まさに山のように積み上がっていたが、一番下に光輝くものを見つけた。拾い上げると、2010年に獲得したナビスコカップのニューヒーロー賞のクリスタル型のトロフィーだった。ひびは入っていたが、重かったため津波に流されず、そのまま残っていた。
「今も実家にあります。ひびが入ったまま。あれすごく重いんですよ。重いから本当に床下に落ちていて。やっぱり見る度に当時のことを思い出しますよね」
「エネルギーが外に向くようになりました」
その後も、被災地には何回も足を運んだ。子供たちを元気づけようと、地元の小学校の少年団におやつを持って配りに行ったり、サッカー教室をやったりもした。2011年5月に東北地方のサッカー復興のために発足した「東北人魂を持つJ選手の会」の活動にも積極的に参加した。
だが掛けられる言葉は決まって「サッカー頑張ってください」だった。
「逆だったんですよ。自分が応援する側だったのに、みんな辛い思いをして大変な状況なのに、そういう言葉をかけられて。自分たちが元気づけるために行っているのに、やっぱり自分はサッカーで見せないといけないんだなと。それが変わったきっかけになりましたよね」
それまでも高萩の天才的なパスセンスは、誰もが認めていた。だがあくまで独りよがりだった。難しい所を狙うパスも全て自分の感覚でやっていた。
「それまでは自分さえよければいいという感覚でサッカーをしていた。もちろんチームのためにはプレーするんですけど、自分がどういうプレーをするかしか考えていなかった。それが被災地の方たちと会ったり、声をかけてもらうことによって、『誰かのために』っていう気持ちになったんです。被災地の方や応援してくれる人たちのために、勇気を与えるじゃないですけど、何かきっかけになればいいなという感覚でプレーするようになったんです。
それこそ、広島のファン、サポーターにもそうですし、エネルギーが外に向くようになりましたね。タイミングが良すぎて、これがきっかけで活躍できたと言えるのか、つながっているのかは分からないですけど、初めて人のためにプレーできるようになったと思います」
翌年、高萩はリーグ最多の13アシストを記録。ベガルタ仙台との熾烈な争いを制し、チームを初優勝に導いた。優勝を決めた11月24日のセレッソ大阪戦の試合後、高萩はピッチの上で両手を合わせて祈った。
「自然と出ましたね。自然と涙も出たし、何か悲しい涙というよりは、何の感情か分からない涙でしたね。本当にあの年は何か目に見えない部分があったかなと思いますね」
FC東京に所属していた2019年、選手会の復興支援活動で福島・双葉郡富岡町の小学校を訪問した。コロナ禍で一時はオンラインでの交流となったが、2022年に高萩が「またやりたいです」と呼びかけて訪問を再開した。FC東京の選手会は今も毎年続けている。高萩もクラブを離れたあとも、この活動には度々参加している。
「今となっては毎年楽しみで。最初に行った時の子供が中学生になっていたり、あの時の子がこんなに大きくなったり、みたいなこともあったりして。震災自体はネガティブなものに変わりはないんですけど、僕にとっては変わるきっかけというか、ポジティブに捉えているものもあるんです」
悲しい事実は消えない。だが「誰かのために」プレーする姿は、地元に、そして東北の人々に勇気を与えたはずだ。
(FOOTBALL ZONE編集部・井上信太郎 / Shintaro Inoue)




















