日本サッカーの夜明け前にあった「幻のアジア挑戦」 初出場の1988年大会、B代表で“ぶっつけ本番”【コラム】

アジア杯初出場の陰に幻の日本代表の存在【写真:Getty Images】
アジア杯初出場の陰に幻の日本代表の存在【写真:Getty Images】

かつての日本はアジアカップ参加に消極的

 アジアカップが1月12日にカタールで開幕する。4年に1回、アジア王者を決める大会で、日本は最多5度目の優勝を目指す。日本サッカーのターニングポイントとなったのが、Jリーグ開幕前の1992年広島大会。初めてアジアの頂点に立ち、歴史が変わった。森保一監督が選手として優勝に貢献し、日本サッカーに「新しい景色」をもたらした大会を振り返る。

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 日本代表が初めてアジアカップに臨んだのが92年広島大会。地元で初優勝を果たしたあと、日本サッカーはJリーグ発足、アメリカ・ワールドカップ(W杯)アジア予選へと進んでいく。しかし、その4年前のアジアカップに日本が参加していたことは、あまり知られていない。日本代表ではなく、日本B代表での出場だったからだ。

 アジアカップの歴史は古い。大陸選手権としては、1916年から行われている南米選手権(コパ・アメリカ)に次いで1956年にスタート。60年に始まった欧州選手権(EURO)よりも歴史があるのだ。ところが、日本は参加に積極的ではなかった。

 初めて予選に参加したのは第4回の1968年大会だが、B代表。A代表の予選参加は第6回の76年大会だけだった。第9回の88年カタール大会予選に参加したのも、92年に広島大会を控えているからというのが理由。それも、国内日程優先のためにA代表を送れず、学生主体のB代表を「アリバイ作り」として参加させた。

 ところが、このB代表が予想外に健闘して初めて予選を突破した。本大会にはA代表を送り込むこともできたが、国内日程が優先された時代。2年前の86年には古河電工(現ジェフユナイテッド千葉)がアジアクラブ選手権(現AFCチャンピオンズリーグ/ACL)で日本チームとして初めて優勝したが、サウジアラビアでの決勝ラウンドと日程が重なった天皇杯を辞退したことで「天皇杯軽視」と批判されたほどだった。日本サッカー協会(JFA)内に「プロリーグ検討委員会」が設置されるのは89年、まだアマチュア選手もいて急に会社を休めないという事情もあったという。

「アジア軽視」の姿勢はAFCからも批判

「若い選手に経験を積ませるため」という大義名分の下、本大会もB代表が開催地カタールに送られた。率いたのはA代表の横山謙三監督、順天堂大、筑波大、大商大などの学生に日本リーグの若手を加え、ほとんど練習せずにぶっつけ本番で臨んだ。

 帯同メディアもなく、スタッフは最低限。「監督、コーチ、トレーナー、ドクターくらいで、チームの荷物は選手が手分けして運んだ」と守備の中心だったDF大嶽直人(当時・順天堂大)。新聞やテレビで取り上げられることもなく、国内では大会の存在さえも知られていなかった。

 チームは初戦で強豪イランと0-0で引き分けるなど健闘したが、1ゴールも奪えず1次リーグ1分3敗で敗退。若手主体のチームで臨んだ日本の「アジア軽視」の姿勢は、アジアサッカー連盟(AFC)からも批判された。JFAの幹部が「AFCから次回大会の広島開催を返上しろと言われた」と頭を抱えたほどだった。

 アジアカップとはいえ若手主体のB代表だったため、JFAも日本代表の記録としては扱っていない。とはいえ、日本のアジア挑戦史を振り返るうえでは、忘れてはいけない大会だ。主会場として決勝が行われたアル・アハリ競技場は、93年「ドーハの悲劇」の舞台。日本サッカー史に残るピッチで、日本の若手は2試合戦っていた。

 メンバーも若手主体はいえ、DF堀池巧(読売クラブ)、DF井原正巳(筑波大)、MF松山吉之(早稲田大)、MF池ノ上俊一(大商大)、FW前田治(全日空)はA代表を経験済み。その後、多くの選手がA代表でプレーした。さらに、Jリーグ開幕時に20代後半になった選手たちは、主力として各クラブを引っ張った。

 DFの堀池、井原と大嶽、阪倉裕二(順天堂大)、FWの中山雅史(筑波大)、高木琢也(大商大)の6人は4年後の広島大会でメンバー入り。韓国、イラン、UAE、そして開催国カタールと対戦した88年大会の経験は、決して小さくはなかったはずだ。

 日本サッカーの夜明け前にあった「幻のアジア挑戦」。それが4年後のアジア初制覇につながるとは、戦った選手ですら思っていなかった。

【読者アンケート】日本代表アジアカップ優勝予想

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荻島弘一

おぎしま・ひろかず/1960年生まれ。大学卒業後、日刊スポーツ新聞社に入社。スポーツ部記者として五輪競技を担当。サッカーは日本リーグ時代からJリーグ発足、日本代表などを取材する。同部デスク、出版社編集長を経て、06年から編集委員として現場に復帰。20年に同新聞社を退社。

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