24歳・冨安健洋が明かした早すぎる母との別れ 失意のW杯、負傷の連続を乗り越えた次世代“闘将”の現在地【コラム】
プレミア初ゴール後に自身のSNSで昨年母・佳代子さんが亡くなったことを明かした
「彼は本当に大変な中で『日本のために戦う』という姿勢を見せてくれたし、『チームのため』っていう思いを持って代表招集に応じてくれた。集中できないようなメンタルの中でも本当に頑張ってくれたなと感じます。トミ(冨安健洋=アーセナル)は『お母さんのために』と思いながら戦っているでしょうし、お母さんが天国から見守ってくれていることが成長につながっていると思います」
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10月28日のプレミアリーグ第10節シェフィールド・ユナイテッド戦で冨安がプレミアリーグ初ゴールを決めたという報を受け、29日の柏レイソル対川崎フロンターレ戦を視察した日本代表の森保一監督はしみじみとこう語っていた。
アーセナル50試合目という節目の得点後、冨安は「ゴールを昨年亡くなった母に捧げる」とSNSに投稿。愛する母・佳代子さんとの早すぎる別れを初めて公にした。
森保監督はもちろんその事実を知っていたはずだが、難しい精神状態を承知で2022年カタール・ワールドカップ(W杯)に招集し、3試合に起用した。しかしながら、2021年から怪我を繰り返し、思うようにパフォーマンスの上がらない状態が続き、冨安は本来の実力を出し切れなかった。
「個人的に本当に良くなかった。本当に何か、しょうもないというか、何やっているんだろうっていう気持ちが強い分、先を見られないというか、どうしたらいいんだろうという感じです。このW杯でトップパフォーマンスを出せた試合はなかった。怪我もあって嫌になりますね、本当……」
クロアチア戦後に彼は顔をゆがめながら複雑な胸中を吐露した。その苦しみと悔しさは単にピッチ上のことだけではなかったのだ。1年前の冨安の辛さを我々は今になって思い知らされたのである。
1998年に福岡市で誕生した彼は姉2人のいる末っ子として育った。実は筆者は2017年、母・佳代子さんに冨安の幼少期に関する質問状を送ったことがあるのだが、「健洋という名前は、太平洋のように広い心を持った人間に育ってほしいという願いを込めて命名しました。教育方針は特にありませんでしたが、基本的には自主性に任せて、善悪の判断だけは間違えないように見守ったつもりです」といった丁寧な回答をいただいている。そんな温かく優しい方が亡くなっていたとは知らず、大きなショックを受けたわけだが、その母の願い通り、冨安は太平洋のようなスケール感を誇るフットボーラーに成長。人間的にも誠実で信頼できる男になった。それは彼に関わった全ての人間が認めるところだろう。
とりわけ、2023年9月の日本代表復帰後の変貌ぶりは顕著だ。もともと年代別代表ではリーダー格ではあったが、第1次森保ジャパン時代はキャプテン吉田麻也(LAギャラクシー)や年長の川島永嗣、長友佑都(FC東京)らがいたこともあって、自分が表立って統率力を発揮するような場面はあまり見られなかった。けれども、今の代表では「いずれ僕と滉(板倉=ボルシアMG)くんで日本の最終ラインを引っ張らないといけないと思っていた」と自覚を口にし、ピッチ上でも身振り手振りで指示を出し、闘争心を前面に押し出す姿が目立っているのだ。
10月17日のチュニジア戦(パナソニックスタジアム吹田)でも、後半33分に町田浩樹(ロイヤル・ユニオン・サン=ジロワーズ)が相手と競り合ってファウルを受けた場面で主審に向かって猛抗議。怒りを露にしたのである。
「ちょっと感情を出し過ぎるのもDFは良くないんで、そこのコントロールを上手くやらないといけないというふうには思います」と本人は反省気味に語っていたが、その立ち振る舞いはまさに「闘将」。吉田らがいた頃とは全く別人のような印象を残したと言っても過言ではないだろう。
26年W杯に向けてアーセナルで培うべきものとは?
本人の中では「自分が模範となって代表をリードしなければいけない」という思いが強まっているのだろう。24歳という若さで最愛の母を亡くすというのは、あまりにも重い出来事だ。昨今は親離れできない若者も多いが、冨安は「1人の大人として世界で堂々と渡り合っていかないと周りを安心させられない」という責任感を持って、サッカーと向き合っているに違いない。
加えて、アーセナルという世界最高峰クラブで日々、高度なサバイバルにさらされていることも、自身の基準を引き上げる大きな要因になっている。
「シンプルにアーセナルでやっていることを代表に還元したいという思いが強いですね。アーセナルで学んでいることがトップ・トップだと信じているので。アーセナルで求められているレベルはおそらく普通ではない。シンプルに潰せるところ潰せていなかったり、決めるべき時に決められないとか、本当に細かい部分なんですけど、それができなければ試合に出られない。高いレベルを自分自身にも求めていますし、周りの選手にも求めていきたい」と彼は強調していた。
実際、2026年北中米W杯優勝という大目標に近づこうと思うなら、徹底的にそこにこだわっていくべきだ。強い信念を持って、より厳しく代表活動にのぞんでいる冨安は、森保監督にとっても不可欠な存在になっている。
特に板倉の欠場が確実になった11月の2026年W杯アジア2次予選・ミャンマー(吹田)&シリア(ジェッダ)2連戦ではより重要度が増してくる。年長の谷口彰悟(アル・ラーヤン)らほかのDF陣もいるものの、年齢に関係なく彼らを統率していく力が今の冨安には十分に備わっている。それを発揮して、鉄壁の守備陣を形成してもらいたい。
さらに、来年1~2月のアジアカップ(カタール)を視野に入れると、アーセナルでも確固たる地位を築いておくことが肝要だ。今季は左右のサイドバックを中心に徐々に出場機会を増やしている彼だが、まだ完全なレギュラーというわけではない。この状態で5週間もチームを離れるというのは、極めて大きなリスクを伴う。シント=トロイデンの一員として2019年大会に参戦した時とは全く状況が異なるのだ。
新天地に赴いたばかりの遠藤航(リバプール)や鎌田大地(ラツィオ)、上田綺世(フェイエノールト)らにも言えることだが、アジア杯参戦はキャリアを賭けた大勝負になる。冨安もそれを念頭に置いて、年内のアーセナルの試合を大事にしなければいけない。賢く先を見通せる男はその重要性を理解しながらピッチに立ち続けるはずだ。
11月の代表活動前にも1日のリーグカップ4回戦ウェストハム戦を筆頭に4試合が組まれている。その1つ1つで爪痕を残すことが肝心である。とにかく怪我をせず、確実に仕事をこなし、成長曲線を引き上げていくこと。それが今の冨安には強く求められている。
天国から見守ってくれている母・佳代子さんのためにも、ここで歩みを止めることなく、「闘将化」をどんどん推し進めてほしいものである。
(元川悦子 / Etsuko Motokawa)
元川悦子
もとかわ・えつこ/1967年、長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに転身。サッカーの取材を始める。日本代表は97年から本格的に追い始め、練習は非公開でも通って選手のコメントを取り、アウェー戦もほぼ現地取材。ワールドカップは94年アメリカ大会から8回連続で現地へ赴いた。近年はほかのスポーツや経済界などで活躍する人物のドキュメンタリー取材も手掛ける。著書に「僕らがサッカーボーイズだった頃1~4」(カンゼン)など。