W杯で再び女子サッカーに“熱狂”を 植木理子、4年前の悔しさが生んだ夢舞台への道

日テレ・東京ヴェルディベレーザでプレーするなでしこジャパンFW植木理子【写真:Getty Images】
日テレ・東京ヴェルディベレーザでプレーするなでしこジャパンFW植木理子【写真:Getty Images】

【連載BEYOND|File.3】19年フランスW杯に選出されながらも怪我で離脱、“自分らしさ”を糧に成長を続ける

 春の訪れとともに3月5日、Yogibo WEリーグが2022-23シーズンを再開し、各地で熱戦を繰り広げている[ftp_del](DAZNではYogibo WEリーグの全試合を配信)[/ftp_del]。「FOOTBALL ZONE」では「BEYOND(~を越えて)」をテーマに、現役選手には挑み続けていることや超えたいと思う目標、OB・OG選手には新たな分野での目標や挑戦について直撃する連載企画をスタート。第3回は、4年前の悔しさを原動力に変え、推進力を持つストライカーとしてW杯出場を目指すFW植木理子(日テレ・東京ヴェルディベレーザ)だ。(文=藤井雅彦)

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 4年前の悔しさは忘れていない。

 植木理子は2019年女子W杯フランス大会に臨む、なでしこジャパンに選出されていた。しかし、直前のなでしこリーグ(現WEリーグ)で右膝を痛めた影響で、合宿に帯同しながらも別メニュー調整を過ごす日々に。

 無念の離脱が発表されたのは、初戦のアルゼンチン戦10日前。10代半ばから世代別代表で活躍を続けて本大会行きの切符を掴んだ19歳にとって、あまりにも残酷な結末だった。

「人はあんなに泣けるんだって初めて知りました。眠っているのになぜか涙がこぼれてきて、目が覚めてしまったり。そんな日が1週間くらい続いて、燃え尽きてしまったような感覚に陥りました。1度は頑張ることが嫌になってしまって」

 所属するベレーザに戻ってリハビリに取り組んでも、肝心要の気持ちがまったく追いつかない。心ここにあらず、の状態である。

「1度ゆっくりしようと決めて、自分から友だちを誘って遊びました。今日は焼肉を食べて、明日はお好み焼きを食べて。とにかく好きなものをたくさん食べて、いっぱい寝ました。リハビリはこなす程度にやって、その前後の食事のことばかり考えて過ごしていました」

 大好きなサッカーからほんの少し距離を取った植木は、信条である「頑張ること」を取り戻す。長期離脱を余儀なくされていたチームメイトの村松智子がリハビリに励む姿を目の当たりにし、いつまでも立ち止まっているわけにはいかないことに気づかされたのも大きかった。

試行錯誤の末に見えた自分のスタイル「やっぱり生かされるタイプ」

4年前は怪我でW杯に出場できず、悔しさで涙が止まらなかった【写真:荒川祐史】
4年前は怪我でW杯に出場できず、悔しさで涙が止まらなかった【写真:荒川祐史】

 あれから4年の年月が経ち、取り巻く環境は少なからず変わった。

 2021年9月には日本初の女子プロサッカーリーグであるWEリーグが誕生。植木は所属するベレーザでエースストライカーナンバーの9番を背負っている。年齢とキャリアを積み上げ、押しも押されもせぬ中心選手としてチームを引っ張る存在になった。立ち位置の変化によって見えてきたものがある。

「たぶん錯覚していたんですよね。10代でベレーザの選手になった頃は、素晴らしい先輩方が自分を生かしてくれたおかげでゴールを決められていました。自分ひとりでは何もできないのに、通用するという錯覚を起こしていたんです。立場が変わって、それがわかりました」

 試行錯誤の日々は続き、2021-22シーズンは19試合6得点。強烈なインパクトを残すほどの数字ではなかったかもしれない。それでも植木自身は着実に前へ進んでいる手応えを掴んでいるのも確かだ。

「一昨年くらいまでは、先輩方が抜けて自分が周りを生かさければという気持ちが強くなり過ぎていました。でも、冷静に考えてみると、自分はやっぱり生かされるタイプの選手。だから、どの選手からも生かしてもらえるための努力をしたほうが自分らしいなって。そのスタイルを確立できたのは、ここ1、2年だと思います」

 コツコツと積み上げてきた努力が目に見える結果として表れたのは今年1月の皇后杯だった。決勝戦のINAC神戸レオネッサ戦で2ゴールを挙げ、チームを優勝に導く。そこには輝くような笑顔でカップを掲げる背番号9がいた。

2011年W杯優勝の熱狂を実感「こんなにも大きな影響を」

小学生でW杯優勝の影響力を体感し、決めた人生目標があるという【写真:荒川祐史】
小学生でW杯優勝の影響力を体感し、決めた人生目標があるという【写真:荒川祐史】

 なでしこジャパンでも2022年1月に代表初ゴールを決め、以降はコンスタントに招集されて数字も残している。「見られ方はいい意味で変わったと思います。でも、大きな大会で何かを成し遂げたわけではないですし、危機感はずっとあります」という視線の先にあるのは、もちろん今年オーストラリアとニュージーランドで共同開催されるW杯だろう。

 10歳で本格的にボールを蹴り始め、ずっと思いを馳せ続けていた夢舞台が手を伸ばせば届くところに迫っている。

「2011年の女子W杯優勝でなでしこジャパンの存在を知りました。その直後の夏休みの自由研究は『なでしこジャパンの軌跡』をテーマにして、模造紙に全試合のメンバーと戦評を必死に書き込みました。夏休み最終日に近所のコンビニで写真をプリントアウトして、完成したのは夜中の2時を過ぎていたかな」

 女子がボールを蹴っているだけで珍しかった時代である。それがなでしこジャパンの大偉業によって、テレビも新聞もジャパンブルーに染まった。女子サッカーの存在が日本列島に突如として広まった瞬間だ。

 影響力の大きさはサッカー少女の植木をも巻き込んでいく。

「夏休みが終わったら、休み時間にやっていたサッカーに女の子も参加するようになったんです。自分のクラスだけで10人以上の女の子がサッカーをやりたいと言ってくれて、ほかのクラスと試合をするようになったり。女子サッカーがこんなにも大きな影響を与えたことに感動しました。自分が好きなこと、熱中していることに共感してもらえるのって嬉しいですよね。その時から、自分は女子サッカーをもっと多くの人に知ってもらって、広めることを人生目標に決めたんです」

 4年前の悔しさを晴らすために。そして、12年前の熱狂を今度は当事者として再現するために。

 植木理子は常に相手の背後を狙い、貪欲にゴールを目指す。そのプレースタイルが、胸に秘めた壮大な野望を叶えるための轍となっていく。

[プロフィール]
植木理子(うえき・りこ)/1999年7月30日生まれ、神奈川県出身。AC等々力―日テレ・メニーナ・セリアス―日テレ・メニーナ―日テレ・ベレーザ/日テレ・東京ヴェルディベレーザ。なでしこリーグ通算60試合21得点、WEリーグ通算27試合10得点、日本代表通算19試合8得点。10代の頃から世代別代表で活躍してきたストライカー。積極的にゴールを目指すプレーに加え、相手の背後をつく神出鬼没さも武器。2019年のフランスW杯は直前合宿に参加するも怪我により離脱。今年のW杯出場に向けてチャレンジを続ける。

(藤井雅彦 / Masahiko Fujii)



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藤井雅彦

ふじい・まさひこ/1983年生まれ、神奈川県出身。日本ジャーナリスト専門学校在学中からボランティア形式でサッカー業界に携わり、卒業後にフリーランスとして活動開始。サッカー専門新聞『EL GOLAZO』創刊号から寄稿し、ドイツW杯取材を経て2006年から横浜F・マリノス担当に。12年からはウェブマガジン『ザ・ヨコハマ・エクスプレス』(https://www.targma.jp/yokohama-ex/)の責任編集として密着取材を続けている。著書に『横浜F・マリノス 変革のトリコロール秘史』、構成に『中村俊輔式 サッカー観戦術』『サッカー・J2論/松井大輔』『ゴールへの道は自分自身で切り拓くものだ/山瀬功治』(発行はすべてワニブックス)がある。

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