「僕には僕の美学がある」 青山敏弘、初のW杯で痛感した経験値不足と貫いた“広島愛”

青山が貫いた美学「W杯に行くのなら広島から行きたい」

 もし、人生をやり直せるとしたら、海外でプレーしたいと彼は思っているのか。

 若い頃から青山はずっと怪我で苦しめられ、それが原因で北京五輪代表からも外れた。前十字靱帯、半月板、腰痛、膝の軟骨、度重なる骨折。まるで怪我のデパートのように厳しい状況に追い詰められ、何度も挫折しそうになった。そういう不運がなく人生をやり直せたら、海外でのプレーを選択し、W杯を目指したのだろうか。

「それはないですね。全くない」

 決然と、彼は断言した。

「W杯に行くのなら、僕は広島から行きたいと思っていた。広島でプレーしたからこそW杯に出られたし、2度目のチャンスもあった。なんなら今回だって、もしチャンスがあればと思っていたからね」

 実際、2019年のアジアカップ日本代表に彼は選ばれている。そこで右膝軟骨の大怪我がなかったら、もしかしたら可能性もあったかもしれない。

「僕には僕の美学があって、それで勝負したい。もちろん、そこで足りなかったから、(W杯で)結果を出せなかったのかもしれないんだけどね」

 青山敏弘というサッカー選手が、W杯という舞台で結果を出せなかった。それは客観的にも主観的にも、事実である。その要因が、国際経験のなさにあることも、彼は冷静に分析していた。だが、広島一筋で闘ってきた人生に対して、一片の悔いはない。

 ほぼ無名の存在から広島に加入し、無数の怪我と闘いながら、様々な挫折を乗り越えてきた広島でのサッカー人生に、彼は一点の曇りもなく誇りを持っている。今季、ミヒャエル・スキッベ監督就任とともに出場機会が減ってしまっても、「いいシーズンだった。いい監督が来てくれたし、チームとしていい競争ができた」と笑顔で語るように、どんなに苦しい時も最終的には前を向ける。そんな精神性があるからこそ、なのだろう。

 筆者は今も妄想する。もし青山が五輪に出場できていたら。もし、ザッケローニ監督がもっと早く、青山を「発見」できていたとしたら。欧州遠征に参加し、岡崎慎司とのコンビネーションが磨かれていたとしたら。大久保嘉人とのコンビを、もっと何度も試していられたら。第3戦ではなく第2戦のギリシャ戦で、青山が使われていたならば――。

 だが、そういう「たられば」も含め広島のレジェンドは受け入れ、かつて広島でともに闘って栄光を掴んだ森保一監督やコーチ陣、そして同じ北京世代の吉田麻也(元シャルケ)や長友佑都(元FC東京)らの活躍に期待して、カタールの地へ想いを託していることだろう。そういう青山敏弘の人間性も、筆者は尊敬している。

(文中敬称略)

[プロフィール]
青山敏弘(あおやま・としひろ)/1986年2月22日生まれ、岡山県出身。作陽高―広島。J1通算436試合20得点、J2通算36試合4得点、日本代表通算12試合1得点。広島一筋19年を誇るハート&ソウルにして、卓越したパスセンスと闘争心を併せ持つ熟練のボランチ。ファンサービスの神対応も広く知られ、同僚から絶大な信頼を得るとともに、多くの人々から愛される。ワールドカップには2014年のブラジル大会に出場した。

(中野和也 / Kazuya Nakano)



中野和也

なかの・かずや/1962年生まれ、長崎県出身。広島大学経済学部卒業後、株式会社リクルート中国支社・株式会社中四国リクルート企画で各種情報誌の制作・編集、求人広告の作成などに関わる。1994年からフリー、翌95年よりサンフレッチェ広島の取材を開始。以降、各種媒体でサンフレッチェ広島に関するリポート・コラムなどを執筆。2000年、サンフレッチェ広島オフィシャルマガジン『紫熊倶楽部』を創刊。著作に『サンフレッチェ情熱史』『戦う、勝つ、生きる 4年で3度のJ制覇。サンフレッチェ広島、奇跡の真相』(ともにソル・メディア)。

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