「僕には僕の美学がある」 青山敏弘、初のW杯で痛感した経験値不足と貫いた“広島愛”

2014年のブラジルW杯で自身初の舞台に立った青山敏弘青山敏弘【写真:Getty Images】
2014年のブラジルW杯で自身初の舞台に立った青山敏弘青山敏弘【写真:Getty Images】

【2014年ブラジルW杯戦記|青山敏弘】国全体が「W杯で揺れていた」衝撃の感覚

 カタール・ワールドカップ(W杯)は11月20日に開幕し、森保一監督率いる日本代表はグループリーグでドイツ代表、コスタリカ代表、スペイン代表と同居する過酷な状況のなか、史上初の大会ベスト8入りを目指す。

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 7大会連続となる世界の大舞台。これまで多くの代表選手が涙を流し、苦しみから這い上がり、笑顔を掴み取って懸命に築き上げてきた日本の歴史だ。「FOOTBALL ZONE」では、カタール大会に向けて不定期企画「W杯戦記」を展開し、これまでの舞台を経験した人物たちにそれぞれの大会を振り返ってもらう。2014年のブラジルW杯で自身初の舞台に立った青山敏弘(サンフレッチェ広島)が、8年前の記憶を紐解く。(取材・文=中野和也/全2回の2回目)

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 日本代表のブラジルW杯で拠点としたのは、イトゥー。サンパウロから内陸に100キロほど入ったキャンプ地は、試合会場までいずれも約2000キロも離れた場所にあり、しかも気候が全く違う。平均気温16度くらいのイトィーと、25度近い試合会場では、晩秋と初夏ほどの違いがある。つまり、日本代表は毎試合、東京から台湾に向かって移動して試合を行っていたような感覚だ。

 大会前から、この移動と気候の差がコンディションに問題を生じさせるのではないかという指摘は、確かにあった。実際、ジャーナリストの笹井宏次朗氏がブラジルの現地紙でこの問題を取り上げ、1月には「この広いブラジルに住んでいる日本人であれば、あまりにも違いすぎる気候の変化と移動距離の長さに、誰もが心配することなのだ。このままでは日本代表の全敗は避けられない」と警鐘を鳴らしていた。

「確かに、(試合会場は)遠かった」と青山も述懐した。

「移動が長すぎて、自分がどこにいるのかも分からなかった。ただ、場所がブラジルだし、そういうものだと理解していましたね」

 そんなことよりも彼が覚えているのは、W杯期間中のブラジルの雰囲気だった。

「ブラジル代表の開幕戦では、ブラジルに点が入るたびに花火が上がるんです。それは、僕らの合宿地でも同じでした。車にはブラジルの国旗が飾られていて、国全体がW杯で揺れている。そんな感覚はありましたね」

 6月14日、ブラジル北東部の街レシフェで、日本はコートジボワールとのグループリーグ初戦を迎えた。青山のポジションであるボランチは長谷部誠(元フランクフルト)と山口蛍(現ヴィッセル神戸)が先発。山口は2013年の東アジアカップ(現E-1選手権)組であり、彼が先発に選ばれたことを青山は素直に「凄い」と感じていた。

 前半16分、本田圭佑の素晴らしいシュートが決まって先制。だが、後半17分にディディエ・ドログバが投入されると雰囲気は一変した。同19分はウィルフリード・ボニー、同21分にはジェルビーニョ。あっという間に逆転され、そのまま試合終了。青山はベンチからその一部始終を見ていた。

「同点から逆転まで、あっという間に流れをもっていかれた。修正という修正もできないままでしたね。できるだけ前向きになろうとはしていたけれど……、あの試合ではヤヤ・トゥーレがずっと際だっていて、彼を中盤で止められなかった。彼にリズムを作られていた。ボールを奪えないし、デカいし、速いし、強いし、上手かった。やっぱり、危険な選手でしたね。正直、厳しいなと思った」

中野和也

なかの・かずや/1962年生まれ、長崎県出身。広島大学経済学部卒業後、株式会社リクルート中国支社・株式会社中四国リクルート企画で各種情報誌の制作・編集、求人広告の作成などに関わる。1994年からフリー、翌95年よりサンフレッチェ広島の取材を開始。以降、各種媒体でサンフレッチェ広島に関するリポート・コラムなどを執筆。2000年、サンフレッチェ広島オフィシャルマガジン『紫熊倶楽部』を創刊。著作に『サンフレッチェ情熱史』『戦う、勝つ、生きる 4年で3度のJ制覇。サンフレッチェ広島、奇跡の真相』(ともにソル・メディア)。

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