37歳元Jリーガー監督、指導実績“ゼロ”も辣腕 原石となった闘莉王からの金言

名古屋時代、3年目以降は背番号10を背負った【写真:Getty Images】
名古屋時代、3年目以降は背番号10を背負った【写真:Getty Images】

名古屋時代の“10番”への思い 「ピクシーが納得していたかはわからない」

 規律と戦術が整備された戦い方は、学生時代から「監督やコーチが求めていることを表現するのが選手」と考えてきた小川のプレースタイルにも合致し、それが彼の成長も促してきた。2014年から就任した西野朗監督の下では選手の自主性、アイデアや個人能力が重視される傾向があり、「自由を与えられて、少し迷いながらプレーしていたところはあった」が、それまで積み上げてきた経験で適応を試みた。

 西野体制下でのエピソードとしては、背番号にまつわる話が面白い。西野元監督は背番号に一家言あるタイプで、例えば特別指定の時には背番号2をつけていた大武峻(現ザスパクサツ群馬)が、正式加入する際には5番に改めさせている。曰く、「こっちの番号のイメージ」。プレースタイルによって背番号を選び、背番号によってプレースタイルを想像する指揮官は、“ストイコビッチの10番”を継承した選手をそのままのイメージで見ていたらしい。

「やっぱり10番のイメージってテクニシャンで、ボール持ったらスルーパスを出したり、攻撃でタクトを振るったりするイメージだったと思うんです。西野さんには外から見ていた僕のイメージと、実際に自分の下で選手として見た時のイメージは少し違ったと言われました。外から見ている時は10番タイプだって思ってたらしいんです。でも自分はオン・ザ・ボールで活きるというよりは、オフ・ザ・ボールで活きる選手。だから最初は試合に出ていましたけど、ちょっとずつ出場機会が減っていって。自分と監督の思い描いているものとの違いやズレがあったのかもしれないです」

 小川の口調は淡々としていて、少しの恨みがましい部分もなかった。背番号10の継承についても誤解があるのかもしれないと、いきさつを説明してくれた。

「2年目の契約更改で29番の背番号を若くするかという話をチームからされて。でも空いていたのが9番と10番しかなかったんです。ストライカーでもないし、9番はないなと。でも10番か、とも思いました。ただこういうチャンスもそうそうないし、10番を着けさせてもらいますというのが事の経緯です。ピクシーの許可というか、ピクシーが『小川が10番だ』と言ったわけでもないですし、監督の練習着の番号は『10』でしたからね(笑)。僕が10番を着けていることに納得していたかはわからない。『10番はオレだ』ぐらいに思ってたかもしれないですよ(笑)。正直、例えば8番が選択肢にあったら8番と言っていたかもしれない」

今井雄一朗

いまい・ゆういちろう/1979年生まれ。雑誌社勤務ののち、2015年よりフリーランスに。Jリーグの名古屋グランパスや愛知を中心とした東海地方のサッカー取材をライフワークとする。現在はタグマ!にて『赤鯱新報』(名古屋グランパス応援メディア)を運営し、”現場発”の情報を元にしたコンテンツを届けている。

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