Jリーガーから国立大の准教授へ 元浦和MF、引退後の道を切り拓いた飽くなき探求心
【元プロサッカー選手の転身録】菊原伸郎(元浦和)後編:浦和営業部での会社員生活を経て筑波大学大学院に進学
世界屈指の人気スポーツであるサッカーでプロまでたどり着く人間はほんのひと握り。その弱肉強食の世界で誰もが羨む成功を手にする者もいれば、早々とスパイクを脱ぐ者もいる。サッカーに人生をかけ、懸命に戦い続けた彼らは引退後に何を思うのか。「Football ZONE web」では元プロサッカー選手たちに焦点を当て、その第2の人生を追った。
今回の「転身録」は、浦和レッズに1994年シーズンに1年間在籍した菊原伸郎(50歳)だ。1歳年上の兄・志郎と“兄弟Jリーガー”となったが、怪我もありわずか1年で現役を引退。その後は浦和のクラブスタッフ、大学院進学などを経て、現在は埼玉大学教育学部の准教授として同校サッカー部監督も務めている。後編では引退後のセカンドキャリアで歩んだ道のりを振り返り、現在、埼玉大の准教授として奮闘する姿を追う。(取材・文=河野 正)
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1994年の1シーズン限りで浦和レッズとの契約が満了になった菊原伸郎は、今後についてあれこれと思案を巡らせていた。
そんな折、浦和の清水泰男社長にクラブスタッフ入りを勧められ、95年2月1日から営業部での会社員生活が始まった。セカンドキャリアの第一歩となったが、菊原の旺盛な探求心と好奇心は、一つや二つの経歴ではとても収まり切らなかった。
営業部では選手のシューズ契約やオフィシャルショップの管理などを担当。「経営には興味があったし、グッズ開発も広告代理店との交流も楽しかった」とやりがいを感じてはいたが、96年4月20日に退社する。プロの指導者を目指し、コーチ学を身につけるためだった。
退職と同時に筑波大学大学院に進学。院生と体育センター助手などの傍ら、蹴球部の指導にも情熱を注いだ。山中邦夫監督の下でヘッドコーチを任され、97年の全日本大学選手権でフラット3をお披露目し、翌年の第78回天皇杯3回戦では敗れたものの、鹿島アントラーズと好勝負を演じ強烈なインパクトを残した。
3人のDFを横一列に並べてラインを高くする戦法は、98年に就任したフィリップ・トルシエ日本代表監督が採用したことで脚光を浴びた。しかし菊原は「トルシエ監督に先んじて、日本で初めて取り入れたのが自分たちだと自負しています」と少しばかり誇らしそうに語った。
研究と指導に没頭した3年間を終え、99年からはFC東京のコーチ就任が決まっていたのだが……。
河野 正
1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。