「サッカーにコートはありません」 日本サッカー黎明期の先人が大切にした“言葉の重み”

かつてJFAの会長を務めた岡野俊一郎氏【写真:Getty Images】
かつてJFAの会長を務めた岡野俊一郎氏【写真:Getty Images】

JFA元会長の岡野俊一郎氏、“マイナー時代”に出色だったテレビの解説

 もし今回の東京五輪が中止になっても日本サッカーの致命傷にはならないだろうが、56年前は違った。東京五輪が開催されるので日本サッカー協会(JFA)は喫緊の重要課題として代表強化に取り組み、ドイツからデットマール・クラマー氏の招聘に成功した。また東京五輪が開かれたことで、メディアを先頭に日本人もどうやらサッカーが世界で最も盛んなスポーツだと認識するようになり、人気競技でアルゼンチンを下したことが「奇跡」「快挙」だと報じられた。

 特に普及面を考えれば、マイナーだったサッカー界に岡野俊一郎氏(元JFA会長)が存在したのは僥倖(ぎょうこう)だった。そもそも東大出身でトップレベルの選手だったことが時代背景を物語るが、岡野氏の八面六臂の活躍ぶりがなければ、代表強化もメディアへの正確な情報提供も滞ってしまったに違いない。

 例えば、日本代表が長期の欧州遠征に出かければ、役員として帯同したのは長沼健監督を除けばコーチ兼任の岡野氏1人だった。遠征、合宿の計画を練り、マッチメークの交渉を進め、チーム全員の航空券、電車からホテルの手配まで一手に引き受けた。また代表の活動を離れれば、自らテレビのサッカー教室のコンテを考案して実践し、メディアへの記事の執筆もこなした。そして何より出色だったのが、テレビの解説だった。

「センテンスは短く、チャーミングに」

 解説デビュー直前にクラマー氏から受けたアドバイスだったという。

 私は現地取材をしていて聞いていないのだが、1986年メキシコ・ワールドカップの準々決勝、フランス対ブラジル戦の美しく激しい攻防中に、岡野氏は数分間何も言葉を発しなかったそうだ。最高級のプレー中に雑音はいらない。何より現場のライブ感覚を大切にして、ありのままの魅力を引き出そうという岡野氏ならではの配慮だった。今ではサッカー放送も溢れ、試合そっちのけで喋り倒したり、チャンスのたびに叫びまくったりする解説もあり、言葉遣いの誤りまで伝染傾向にあるが、せめて真似るなら岡野氏レベルを、と願いたいところだ。

 そんな岡野氏は、サッカー情報の発信源を担っていたこともあり、とりわけ意識していたのが「用語を正しく伝えること」だった。

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加部 究

かべ・きわむ/1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。最近選手主体のボトムアップ方式で部活に取り組む堀越高校サッカー部のノンフィクション『毎日の部活が高校生活一番の宝物』(竹書房)を上梓。『日本サッカー戦記~青銅の時代から新世紀へ』『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(いずれもカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。

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