ドイツで今も高く評価される元浦和監督 GM的視点も備えた智将が貫いた哲学とは?

フィンケ氏は、2009年から2シーズン浦和レッズを指揮した【写真:Getty Images】
フィンケ氏は、2009年から2シーズン浦和レッズを指揮した【写真:Getty Images】

2009年から10年まで浦和を率いたフィンケ監督 コーチを務めたモラス雅輝氏が素顔を証言

 フォルカー・フィンケの名前をまだ覚えている人は、どれくらいいるだろうか。世代交代を図ろうとしたJ1リーグの浦和レッズが2009年に迎え入れたものの、常にタイトルを求められるクラブとしての立ち位置と、フィンケが得意とするフィールドとが食い違ったまま時間は過ぎていき、10年にクラブを去ることとなった。残念ながら日本では大きな成果を上げることはできなかったものの、一人の監督の解任劇としてだけ見るのはもったいない。フィンケは母国ドイツで、偉大な指導者の一人に数えられているからだ。

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 当時コーチとして、浦和レッズでフィンケとともに過ごしていたモラス雅輝(現ヴィッセル神戸アシスタントコーチ)の目には、そんなフィンケはどのように映っていたのだろうか。

「あれだけフライブルクで経験と実績がある人だったから、ドイツ、ブンデスリーガからのオファーは山ほどあったんですよね。彼が浦和レッズにいる時も、僕が知っているだけで5つのオファーがあった。でも『自分は浦和レッズとは2年間の契約だから、ちゃんと2年間はやる』と言って全部断ったんです。そのなかのいくつかは、浦和の年俸の何倍という話だった。でもあの人は絶対お金じゃ動かない」

 ドイツでも有名な話がある。かつて所属していたフライブルクでチームユニフォームを国内メーカーのJAKOと常に契約させ、アディダスやナイキといった名だたるメーカーからどれだけ高額のオファーを出されても受け入れさせなかったという。その理由は「東南アジアなどで格段に安い賃金で働かせて作られたユニフォームを受け入れることはできない。俺が現職のうちはナイキにはさせない」と言い続けていたという。

 フィンケはドイツにおいて、ただのサッカー監督以上の何かをもたらせる人として今も高く評価されている。

 1990年代にそれまで1部に昇格したこともなかった弱小クラブのフライブルクに革命をもたらした。当時ドイツ国内でマンマーク・リベロが主流だったサッカーシーンに、現代サッカーの基本とも言えるゾーンプレスやショートパスを中心としたオフェンシブサッカーを浸透させたのだ。ただのきれいなサッカーでは満足せず、ボールを中心にサッカーを捉え、単純にサイドからクロスを入れるのではなく、どのように相手ライン間にパスを通して崩していくかを徹底的に突き詰めた。

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中野吉之伴

なかの・きちのすけ/1977年生まれ。ドイツ・フライブルク在住のサッカー育成指導者。グラスルーツの育成エキスパートになるべく渡独し、ドイツサッカー協会公認A級ライセンス(UEFA-Aレベル)所得。SCフライブルクU-15で研修を積み、地域に密着したドイツのさまざまなサッカークラブで20年以上の育成・指導者キャリアを持つ。育成・指導者関連の記事を多数執筆するほか、ブンデスリーガをはじめ周辺諸国への現地取材を精力的に行っている。著書『ドイツの子どもは審判なしでサッカーをする』(ナツメ社)、『世界王者ドイツ年代別トレーニングの教科書』(カンゼン)。

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