再スタートの戸田和幸氏「不甲斐ない戦いは」 待ち受けた難題…U-17日本選抜を指導「この大会に賭けた」

国際大会に臨むU-17日本選抜の監督という挑戦
解説者として活躍する元日本代表MFの戸田和幸氏は今夏、オランダで開かれた国際大会でU-17日本選抜の指揮を執った。監督就任のオファーを即諾したものの、そこから数々の難題が待ち受けていたという。指導者としての再スタートの舞台裏、そして即席チームをまとめ上げた手腕に迫った。(取材・文=元川悦子/全3回の1回目)
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2025-26シーズンUEFAチャンピオンズリーグ決勝、パリ・サンジェルマン対アーセナル戦(ブダペスト)や北中米ワールドカップ(W杯)準決勝・アルゼンチン対イングランド戦(アトランタ)など、最近もビッグマッチを多く解説し、好評を博している元日本代表・戸田和幸。しかしながら、彼の指導者志向の高さは以前からよく知られていた。
2013年の現役引退後、16年にJFA公認S級ライセンスを取得。慶応義塾大や一橋大、SHIBUYA CITY FC(シブヤ・シティ)での指導を経て、23年からJ3・SC相模原の監督として采配を振るったが、翌年6月に志半ばで解任。その後は特定のチームで指導することはなかったが、北中米W杯直後の8月、U-17日本選抜を率いてオランダへ遠征。マーストリヒト、ユトレヒト、AZ、NECナイメンヘン、シント=トロイデン、ロイヤル・アントワープ、ビジャレアルという欧州7チームが参加した「MVVマーストリヒトカップ2026」に出場し、3位という好成績を残すことに成功したというのだ。
U-17日本選抜を率いることになった経緯や当初の苦労をこう語る。
「僕は以前からミズノと契約し、ブランドアドバイザーを務めさせていただいているのですが、会社側から『この大会にU-17年代の選抜チームを出すので、監督をやってくれないか』という話をいただいたんです。
それが今年3月のこと。ちょうどオランダでの指導者研修に行っていた最中で、いろいろな環境でトレーニングを見て学んでいたこともあり、二つ返事で『やります』と回答したわけですけど、U-17年代のチームは見たことがない。加えて選手選考には関われていないので、どうやって選手の情報を集めようか、即席のチームで勝負できる状態を作れるかと思案したところからのスタートでした。
選手選考はミズノの方々がルーキーリーグや関係のあるチームからの推薦で行ったのですが、選手を知らないことにはチームを作れないので、まず思いついたところとしてアンケートを実施しました。これは自分のポジションやプレースタイル、目指しているプレーモデルなどを記載してもらったのですが、そのうえで、自分がいいと思うプレーをまとめた動画も送ってもらいました」
すべての選手が依頼した情報提供にきちんと応えてくれたことで、ある程度、それぞれのプロファイルが見え始めたというが、それだけでプレーヤーについて全てを把握できるわけではない。戸田は緻密な情報収集を行った。
「そこで次に考えたことが現地視察でした。これはW杯が終わってからだったので、時間に限りはありましたが、大阪・東京・福島・神奈川と自分と選手のスケジュールが合致するところに出向いて練習試合やトレーニングを視察しました。
高校総体では6人出場する可能性があったものの、残念ながら試合に出場したのは2人だけ(1人がスタメン、もう1人は途中から)。それでも、高校年代の試合を見て、彼らの日常を想像する材料は得ることができました。
そして、最終的には各選手が所属しているチームの監督にも連絡をさせていただき、選手の最近の状態、特徴や課題、負傷歴やキャラクターをヒアリングもした。そこまでやってみてようやく選手のプロフィールがだいぶ掴めたかなという気がしました」
過去に指導した大学やシブヤ・シティ、相模原の時は長期間にわたって指導できたが、今回は短期決戦。これまでとは置かれた環境的が大きく異なる。トレーニング期間は3~4日だけで、試合も2日間に5試合を消化するという超過密日程だ。だからこそ、普段以上に入念な対応が必要だったのだ。
「相模原の時もシーズン始動までに全員のプロフィールを作成し、顔と名前、プレースタイル、すべてを頭に叩き込んで臨んでいました。僕は最初の時点から名前で選手を呼ぶというのがポリシー。新体制始動時に監督が『お前』とか『キミ』とか呼んでいる例は少なくないと思いますけど、最初から名前で呼べることによって生まれるポジティブな要素はあると考えているので、今回も同じように全選手の名前と顔は一致させたうえで、活動に臨みました。
今回はクラブを率いる時とは比較にならないほど時間がないので、トレーニングプランもほぼほぼ完成させておかないといけなかった。縁あって素晴らしい国際大会に選手たちは参加できるわけですし、自分も指導者としてチーム作りをさせてもらえるチャンスをもらった。
唯一の即席チームだとしても『日本選抜』という名前がついている以上、不甲斐ない戦いはできない。出場する以上、勝負できるチームで臨まなければいけない。難しそうな条件があった気はしますが、指導者としての力量が試されるこの大会に懸けていたところはありました」
戸田は強い思い入れを持って挑んだが、そこで1つの壁にぶつかった。選手のポジションバランスがまちまちだったのだ。
「直前のW杯で上位躍進したチームのほとんどが4バックだったので、未来ある若い選手たちにも4枚でチャレンジさせてみたいと考えていたんですが、サイドバック(SB)とセンターバック(CB)が足りないことが分かった。だったら3バックで戦うしかないなと割と早い段階で決めました。
選手をチェックしていくうちに、名古屋グランパスユースの井内康介と静岡学園の杉ノ原芽生の2人が中盤の中核になれる存在だと分かった。彼らを軸に据えつつ、課題だったDFのところに、普段チームではインサイドハーフでプレーしている山梨学院の佐藤輝芽を配置するというプランを考えました。それを山梨学院のコーチに相談すると快諾をもらえたので、その形で進んでいこうと思いました。
そうすれば、3-4-2-1とか3-5-2でまずはチームが作れるかなと。チームが作れるのと大会で勝負できるチームになるのは同じではないですが、とりあえずはこんなチーム構成を描きながら、8月9日からの活動に入ったんです」
事前キャンプの場所は北海道函館市。9日の初練習前にミーティングを実施し、そこで戸田監督はまず「チームコンセプト」を提示した。超短期の活動だからこそ「時間の質を高めること」「未来をイメージすること」「日本を代表して戦うこと」を強調。強く意識させるように促したという。

「これは、国際大会で日本という名前がついたチームで出る以上、当然、周りからそういう目で見られるよということですね。けれども、自分たちだけが即席のチームで時間が足りない。だからこそ、『できる限りの準備を進め、勝負できるチームを作って大会に出場しよう』ということを最初に伝えました。
限られた時間の質を高くしないとチームになり始めた時に終わってしまうから、普段よりも一歩二歩、気持ちを前面に押し出してやりましょうと言いましたね」
彼があえてこういう話をしたのは、自分自身が年代別代表として戦ってきた経験があるからだろう。日本開催だった1993年のU-17W杯に彼は宮本恒靖(JFA会長)、中田英寿といった面々とともに参戦。そこからU-20、A代表とステップアップしていったが、同じような軌跡を今回出会った高校生にも歩んでほしいという思いが少なからずあったはずだ。

その一方で、選手とは近い関係性を作ろうと試みた。というのも、戸田には16歳と18歳の娘がいて、高校生世代の若者の感覚を多少なりとも理解していたからだ。高校サッカーやJユースだと監督と選手が規律を重んじながら距離感を保っている印象もあるが、もう少し砕けた感じでもいいのではないかと考え、彼らへのアプローチを進めていったという。
「年齢的には親子に近いくらいの感覚だったんで、言葉遣いも含めてフランクにして、接しやすくするように心がけました」
こうして戸田監督の活動はスタート。ここからトレーニングや試合に突入していった。(文中敬称略、第2回に続く)
(元川悦子 / Etsuko Motokawa)

元川悦子
もとかわ・えつこ/1967年、長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに転身。サッカーの取材を始める。日本代表は97年から本格的に追い始め、練習は非公開でも通って選手のコメントを取り、アウェー戦もほぼ現地取材。ワールドカップは94年アメリカ大会から8回連続で現地へ赴いた。近年はほかのスポーツや経済界などで活躍する人物のドキュメンタリー取材も手掛ける。著書に「僕らがサッカーボーイズだった頃1~4」(カンゼン)など。





















