オシム監督も驚愕「こんな選手が安く取れるなんて」 契約満了も…埋もれていた才能「信じられない」

日本代表、ジェフユナイテッド千葉を率いたイビチャ・オシム監督【写真:アフロスポーツ】
日本代表、ジェフユナイテッド千葉を率いたイビチャ・オシム監督【写真:アフロスポーツ】

江尻篤彦氏は清水商業を日本一へ導いた

 J1百年構想リーグで好調なスタートを切った東京ヴェルディの強化担当として、手腕を振るっている江尻篤彦氏。彼の名が広く知られたのは、1986年正月の第64回全国高校サッカー選手権大会だった。清水商業(現清水桜が丘)のキャプテンはチームを力強くけん引し、四日市中央工業との決勝で勝利。同校を初めて日本一へと導いたのである。(取材日:2026年3月4日、取材・文=元川悦子/全4回の3回目)

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「恩師の大滝(雅良)先生から学んだことは今にもすごく生きています。『チームは生き物だ』という言葉は日々、身に染みて感じていますし、『五感』という言葉も時折、思い出しますね。味覚や臭覚などを含めて五感ですけど、それって目には見えませんよね。つまり先生は『空気を読め』ということを言いたかったんだろうと今になると分かります。

 サッカーは近年、データで可視化できることが増えましたけど、ピッチ上で感じながらプレーしなければいけない部分も少なくない、『今、どこが危ないのか』『この局面はチャンスなのか』『前へ飛び出した方がいいのか』といったことを瞬時に感じて判断できないと、優れたプレーヤーにはなれませんよね。

『自分たち指導者はそういうことを指導するのが一番難しいんだ』と先生はよく話していましたけど、自分も教える側に回ったり、今のようにチーム強化に関わるようになって、それを痛感させられます」と江尻強化部長はしみじみと言う。

 商業の教諭だった大滝先生から学んで取得した簿記2級の資格も、強化トップとして予算管理をするうえで役立っているというが、やはり10代の頃の積み重ねというのは年齢を重ねても失われるものではないのである。

 その後、明治大学を経て、90年に古河電工(現ジェフユナイテッド千葉)入り。93年のJリーグ開幕を迎えたが、その年は彼にとって現役時代の大きな節目だった。というのも、ハンス・オフト監督率いる日本代表に初招集され、94年アメリカ・ワールドカップ(W杯)アジア最終予選直前のスペイン遠征帯同という絶好のチャンスを得たからだ。

 この頃の代表では都並敏史(浦安監督)が絶対的左サイドバック(SB)だったが、ひざの大ケガを負い、最終予選出場が危ぶまれていた。そこでオフト監督はジェフの左ウイングバック(WB)として活躍していた江尻に白羽の矢を立てたのだ。

「代表の左SBとジェフの左WBは役割が全く違ったんですよね。当時は守備の仕方をきちんと学んでいなかったので、非常に戸惑いました。攻撃面はある程度は持っている力を出せたと思うけど、守備に回った時のポジショニングがしっくりこない。戦術理解の部分は自分自身、足りないなと感じたし、外されるのも仕方ないなと思いました」

 結局、最終予選で左SBを担ったのは、三浦泰年(解説者)と勝矢寿延(C大阪スクールコーチ)。特に守備が重視された韓国戦やイラク戦ではセンターバック(CB)本職の勝矢がスタメンで使われた。

「ドーハの悲劇(イラク戦)の時、僕は日本でテレビを見ていましたが、『絶対に勝ってくれ』と祈っていました。オフトからは『本大会に行ったらまたチャンスを与えるから』と言われていたので、日本が勝てば94年アメリカW杯に行ける可能性があると信じていた。だからこそ、同点ゴールが入ってしまった瞬間、自宅で崩れ落ちました(苦笑)。本当に悔しい思いでいっぱいでしたね」

2000年から千葉のトップチームのコーチに就任した

 33年前の出来事を昨日のことのように語る江尻強化部長。結局、代表定着もW杯行きも叶わず、31歳だった98年末に引退を決断することになった。30代半ばまでプレーした同い年の井原正巳(水原三星コーチ)、武田修宏(解説者)らに比べるとかなり早かったが、「現役時代から指導者になりたいという思いが強かったので、選手人生に未練はなかった」と潔く第2の人生にシフトしたという。

 古巣・ジェフで指導者キャリアを踏み出した初期に出会ったのが、阿部勇樹(浦和ユース監督)、佐藤勇人(千葉アンバサダー)・寿人(解説者)といった有望な10代のタレントたちだ。当時ユース監督だった小倉勉氏(現JFA技術委員会副委員長)も「阿部は将来、日の丸を背負う選手になる」と話していたが、そういう逸材を早い段階で教える機会を得たことは、現場に長く携わるうえでの大きな基盤になったはずだ。

 2000年からはトップのコーチに就任。そこで偉大な恩師・イビチャ・オシム監督に師事することになる。「考えながら走る」という言葉が一世を風靡したが、オシム監督は「走れる選手を連れてこい」と口癖のように話していたという。

「その筆頭が中島浩司(解説者)。今では“中島洋太朗(広島)の父”として知られるようになりましたけど、ベガルタ仙台を契約満了になってトライアウトを受けに来たところを小倉さんと僕が見て『ウチに合う』と思って2003年に獲得したんです。

 スピードはそんなにないんですけど、本当によく走る選手で、いろんなことを柔軟にこなす力があった。『こんなにいい選手が安く取れるなんて信じられない』とオシムさんも言っていましたけど、そこから長く活躍した。彼のように理不尽なことも耐え忍んで泥臭くやれるというのも大きな長所。オシムさんは埋もれた才能を引き出すのに長けていました」としみじみ言う。

 選手1人1人をプレーヤーとして見るだけでなく、1人の人間として多角的にアプローチするのも“オシム流”。それも江尻強化部長の脳裏に深く刻まれた点だ。

「『この選手のバックボーンはどうなっているのか』というのもよく聞かれた質問ですね。試合のメンバーを決める際にも、練習や試合のパフォーマンスだけじゃなくて、オフ・ザ・ピッチの部分まで視野を広げていました。本人や家族に悩みや心配事があるとピッチ上の一挙手一投足に影響しますし、そういう部分はやはり無視できない。メンバーから外した時の受け止め方も1人1人違う。そういう細部まで配慮しながらチームを編成していた。そこは今、強化部長としての自分の仕事につながってくる部分だと思っています」

 もう1つ、重要なポイントと言えるのが、前にも少し触れた「正当な競争」だろう。オシム監督時代のジェフは当時16人だった試合帯同メンバーがギリギリの段階まで決まらないのが常だった。

「常に競争がある環境を作るというのは、意外と難しいものなんです。僕らも2024年から2025年にかけてレンタルで借りていた若手を買い取って、若い集団で上を目指そうとしたけど、逆にメンタル的に落ち着いてしまったところがあった。オシムさんが『年金生活者』という表現をよくしていましたけど、ある程度、結果を出してお金を手にした選手は落ち着いてしまう。それが日本人的なメンタリティと言えると思いますけど、昨季のヴェルディはそういう傾向があったのかなと反省しています」

 改めて恩師に思いを馳せたが、向上心と危機感に満ち溢れた集団を作ってこそ、もう一段階、二段階、高い領域に辿り着けると彼は確信する。2026年のヴェルディは“オシム流”をいい意味で引き継いでいるのである。

 さまざまな恩師から得た財産をチームに最大限還元しようとしている江尻強化部長。彼がマネージメントするチームがここから再浮上できるか否か。そこを興味深く見守っていきたいものである。(4に続く)

(元川悦子 / Etsuko Motokawa)



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元川悦子

もとかわ・えつこ/1967年、長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに転身。サッカーの取材を始める。日本代表は97年から本格的に追い始め、練習は非公開でも通って選手のコメントを取り、アウェー戦もほぼ現地取材。ワールドカップは94年アメリカ大会から8回連続で現地へ赴いた。近年はほかのスポーツや経済界などで活躍する人物のドキュメンタリー取材も手掛ける。著書に「僕らがサッカーボーイズだった頃1~4」(カンゼン)など。

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