日本人と欧州スターの“得点王争い” 最終戦でPK決着…自分に言い聞かせた「大丈夫」

PKを蹴る福田正博【写真:山田真市/アフロ】
PKを蹴る福田正博【写真:山田真市/アフロ】

浦和の福田正博「気持ちがゴールへ向いているからPKを取れるんだ」

 Jリーグが開幕した1993年と1994年、浦和レッズは2年続けて年間最下位に沈んだ。あまりの腰砕けぶりに“Jリーグのお荷物”などと小ばかにされたものだが、1995年には日本人初のJリーグ得点王が誕生する。切れ味鋭いドリブルでマーカーをきりきり舞いさせ、支援者からミスター・レッズと敬慕されたFW福田正博である。(取材・文=河野 正)

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 福田が中央大学から加入した1989-90シーズン、名門・三菱重工は日本サッカーリーグ(JSL)で初めて2部に陥落していた。それでも才能豊かなストライカーは異次元のプレーを披露し、1年での1部復帰に尽力する。

 圧倒的なスピードに緩急自在のドリブル、高い技術と正確なキック……。アタッカーの必須要素をほぼ持ち合わせた快足FWは、リーグ戦30試合のうち26試合に出場し、36得点という驚異的な数字を残した。2部の最多記録だった22点を大幅に塗り替え、日本サッカーを担う有望株として一躍スポットライトを浴びることになった。

 1993年には日本代表の要人にまで腕を上げ、4月8日に始まったワールドカップ(W杯)米国大会アジア1次予選の全8試合に出場した。5月7日に予選が終わると同16日のガンバ大阪とのJリーグ開幕戦に参陣。10月15日から28日まではW杯最終予選を戦い、11月6日にJリーグが再開すると早速先発のピッチに立つ多事多忙ぶりだった。

 しかし「サッカー界の大改革」と腕をぶして臨んだ1年目は、リーグ戦27試合で4得点と停滞する。日本代表のせわしない活動に加え、主将のFW柱谷幸一が開幕戦で左太腿を肉離れし10試合欠場。福田への依存度が高くなったことも影響したようだ。

「去年の天皇杯でベスト4に入り、やれるんじゃないかという手応えは単なる過信だったんですよ。準備段階から甘く見ていたから、何のビジョンもなく戦っていた。今年はW杯予選があってJリーグに集中できなかったので、来年はしっかり準備して挽回しないといけない」

 シーズンの総括は反省の言葉が並んだが、2年目も故障が長引き25試合で6得点と振るわなかった。

 5月7日の名古屋グランパス戦で開始早々に右太腿を肉離れ。これが原因で鼠径輪開存による痛みを引き起こし、期限付き移籍第1号選手としてヴェルディ川崎からやって来たMF菊原志郎とともにドイツへ渡り、バイエルン・ミュンヘンのチームドクターに手術を依頼した。

 復帰戦が10月19日だから5か月以上も戦列を離れたことになる。福田は「チームに迷惑をかけ、サポーターを失望させて申し訳ない。来年こそ質の高い試合を見せられるよう頑張りたい」と捲土重来を誓った。

“3度目の正直”を期した1995年は、MFウーベ・バインという余人をもって代え難い左利きが、次々とゴールをおぜん立てしてくれた。「守備の裏を取った瞬間にパスが出てきた。最高のパートナーだった」と大絶賛したものだ。

 1990年W杯イタリア大会を制した西ドイツ代表の名手。1994年7月の加入だが、ふたりとも怪我を抱えてそろって先発したのは3試合しかない。だが1995年は福田もバインも万全な状態でシーズンを迎えた。

 この年のリーグ戦は52試合の長丁場。同時先発はサントリーシリーズ(前期)が20試合で、ニコスシリーズ(後期)が16試合あった。浦和は52試合でPKを24度も獲得し、このうち14回が福田への反則によるもの。ボールを運ぶたびに加速するドリブルは、軽やかでいて鋭かった。

 初ゴールは7試合目のセレッソ大阪戦と出遅れたが、第15節からの5戦連発や終盤には3試合で5点をマーク。福田が15点、バインも11点を稼いだ。ホルガー・オジェック監督が就任し、3-4-2-1の陣形から堅陣、逆襲、速攻のスタイルを確立。これが望外の前期3位の大躍進を呼び込んだ。

 ところが前半戦終了時点で、福田をしのぐ24点を奪った男がいた。W杯イタリア大会の得点王、ジュビロ磐田のFWスキラッチだ。

 8月12日に後期がスタートすると、福田は横浜フリューゲルスとの開幕戦でいきなり2点を奪取。その後も順調に得点を重ね、第7節までに9点を挙げた。

 11月4日には敵地で磐田との直接対決があり、ふたりの主役がそろって先発。福田は後半19分、スキラッチは前半18分と24分に決定打を放ったが、両者無得点に終わる。「1点取りたかったね」と福田。残り6試合で4点差という情勢だった。

 だが吉報という言葉は適切ではないが、スキラッチは怪我の治療のため、浦和戦を最後に母国イタリアへ帰国してしまう。

 磐田戦から2試合得点がなかったが、ジェフユナイテッド市原戦で1点、名古屋グランパス戦で2点を奪って1点差。残り1試合となったV川崎戦の後半42分、左クロスを頭で合わせスキラッチに並ぶ31点目を決めた。ヘディングシュートは前期に続いて2点目だ。

 運命の最終戦は11月25日、浦和駒場スタジアムでの横浜フリューゲルス戦。2万591人の大観衆が集まるなか、福田は韋駄天FW岡野雅行と2トップを形成し、しゃにむにゴールを狙った。

 前半31、35分、後半5、27分と絶好の形からシュートを放ったが、決められない。重圧だろうか。

 そんな後半28分、岡野の高速ドリブルをCB大嶽直人が反則で止めてPK。ボールをセットする福田は平常心ではなかったはずだ。この1か月で3度続けてPKを失敗していたからだ。両手を腰に当てて下を向き、いつもよりも時間を掛けてから助走を始めた。

 後半30分、右足インサイドのキックが、GK森敦彦の逆を突いてゴール左隅に吸い込まれた。32点目。ゴール裏のスタンドからは、日本人初のJリーグ得点王を祝福する無数の紙吹雪が舞い上がった。試合が終わると福田は、背番号9のユニホームをスタンドに投げ込んで謝意を示す。

「単独の得点王だからこそ価値がある。プレッシャー? 少し間を置いて気持ちを落ち着かせ、迷いがなくなるまで時間を掛けた。“大丈夫”と自分に言い聞かせてから思い切って蹴った。PKで得点王を決めたのは今季の僕を象徴している」

 32点のうち14点がPKによるもので、19回キッカーを務めて失敗は5度だった。PK職人とも呼ばれた福田は、「気持ちがゴールへ向いているからPKを取れるんだ」と求道者のごとき言葉を残した。ストライカーなら耳を傾けるべき金言である。

(河野 正 / Tadashi Kawano)



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河野 正

1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。

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